餓鬼を育てる現代人

飲酒運転による痛ましい犠牲者が続出しています。飲んだら乗るな、という以前にクルマは凶器になり得るものだという自覚が望まれます。クルマに乗るということは、それだけ責任重大だと思いますし、歩行者優先という原則を、ボクを含めたドライバーが今一度肝に銘じるべきかと思います。

Dsc00367 楽を覚えると、どこまでも楽を求める心、欲望にかられるとどこまでも欲する心、そんな心を人は持っています。さまざまな経典に餓鬼という存在が出てきますが、諸説の中に「食べても食べても満足せず空腹を訴える」ともあり、まさに人の心の中にもそんな存在がいるのだと思います。

かつて、マルチ商法にハマっていた友人がいました。彼は「6畳一間のアパートに住み、チャリンコ(自転車)に乗ってた俺が、これ(マルチ商法)始めて一年でスカイラインに乗って家賃10数万のマンションに住んでんねん。すごいやろ? オマエもいっしょにやろうや」とボクを誘ってきました。

一瞬「ええなぁ」とは思ったものの(苦笑)、ちょっと考えて彼に「ほんで、オマエはそれで今満足してんねやな?」と聞くと、「もっとや、もっと上行くで」と言います。さらに「ほんなら、ベンツ乗ってマンション買うたら満足すんのん?」と聞くと、「いや、世界中に別荘持って、自家用機で飛び回るんや」と言います。

さて、仮にそうなったとして彼の心は満足するのでしょうか? たぶんそうなって、しばらくはその余韻にひたるかもしれませんが、きっとさらに上を望むのでしょう。その後、彼とは会っていませんのでどうなったかは知りませんが、心の中にいる餓鬼に操られた現代人の哀れさしか感じません。

今ある処に満足や感謝を見出せない人は、何処へ行っても満足しないと言います。世界には紛争が無くならず、本当に餓死する人が存在する中で、それがない日本にいて、これ以上なにを求めますか? セレブとやらになったら満足しますか? 

「世界全体が幸せにならなければ、私ひとりの幸せはあり得ない」、以前にも紹介した宮沢賢治さんのお言葉です。心にある餓鬼に言い聞かせていきたいものです。

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続・八月の歌

Banzai_cliff きれいな海です。これはサイパン島にあるバンザイクリフと呼ばれる岬で、アジア・太平洋戦争末期の1944年夏に米軍に追い詰められた日本人およそ一万人が「バンザイ」と叫びながら身を投げたことからこの名がついたといわれます。

当時、「戦陣訓」というものがあり「生きて虜囚(りょしゅう=捕虜)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍(ざいか=罪やわざわい、ふしあわせの汚名(おめい=不名誉な評判。悪名)を残すこと勿(なか)」という教えが軍人のみならず、一般庶民にまで浸透していたことから起こった悲劇です。

来月には、コイズミに代わる首相が誕生するようですが、その本命と言われるアベは「憲法改正」を高らかと公約に掲げました。いよいよそんな時代になってきたなぁ、と思うとともに、そんな大事な公約の支持不支持を国民が表現できないことに憤りを感じます。

国が戦争をしません! と定めた憲法が、どれほど一般市民にとってありがたいものか、なぜその憲法を変える必要があるのか? 

毎日お参りに回って、多くのお年寄りとお話します。たいがいの方が戦中経験者であり、中でもおばあちゃんたちのほとんどが「戦争だけは二度と嫌や」とおっしゃいます。むろん兵役経験のあるおじいちゃんたちの中には、多くを語りたがらない方もいらっしゃいます。

むろん戦中経験のないボクですが、お年寄り方の話は真実味があり戦争の本当の姿の一部がそこにはあるように感じます。幼き日、周囲の雰囲気で「バンザイ」と叫び、父親や兄を英雄のように戦争に送り出した夜、人知れず泣いていた母親の姿がわすれられないという方。生まれたばかりの子が食糧不足で餓死したという方。いろいろです。

そこにどんな「正義」があったとしても、国民は国家の奴隷ではないはずです。阿弥陀さんは、皆が等しく救われる願いを具現化したお姿だといわれます。人のみならず、生きとし生けるものはその生をまっとうし、精一杯生ききる権利を有しています。その生をまっとうしようとするのが生の本能であり願いです。その願いを妨げること、すなわち本願への冒涜です。

戦争とは、相手があってのことであり、そこで失われる命の存在は皆おなじであり、平等です。人知れず泣いた母、どれだけの母たちが夫や子を失い、どれだけの国で泣いたのか? 国家体制を守ることよりも、そんな血の涙を流させない暮らしを守ることが国家と政治家の役目ではないのでしょうか?

愛国心、そんな言葉の元に、自分自身はもとより、家族や愛すべき人々の命の尊厳を脅かすような生活を求めますか? 国は国民あってのもので、逆転してはいけません。

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家族のいる喜び

Dsc00257 夕べ、里帰りしていた相方と愛息が京都から帰ってきました。特急サンダーバードの到着時間に駅まで迎えに行ったのですが、改札を出てきた愛息がボクの姿を認めた愛息は、「パパぁ~!」と抱きついてきました。

現在小一ですが、こればっかりは幼稚園時代と変わらず、ボクも思わずぎゅっと抱きしめてあげます(照笑)。いつまでこうだろうか? と思いながらも親としての喜びを感じる瞬間です。親ばか、そう言われても結構なんですよね(笑)。

一週間ほどの独身生活でした。それはそれで楽しいものです。前述のように好きなホラー映画を観たり、時間を気にせずネットサーフィンに没頭したり。でも、時間がたつにつれて、いるべき人がいない空虚感、物足りなさを感じるものですよね。

時には煩わしくも感じるものですが、「パパぁ~」とボクを求めてくれる愛息の存在は何ものにも代えがたいなぁ、と盆と正月にはつくづくありがたく感じさせられる貴重な時間だったりするのです。今朝、相方の作ったお味噌汁を飲んで、またしみじみそんなことを思う次第です(照笑)。

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あるご家庭にて

Dento_higasi ひさびさに雨がふり、庭の水撒きをせずにすみました。しかし、暑いです!

昨日は、富山県砺波~南砺のご門徒さん宅10軒を回って報恩講をお勤めしてきましたが、襦袢がしぼれるほどの汗をかきバテバテで帰ってきました(苦笑)。今ごろ? と思われるかもしれませんが、秋の報恩講シーズンには金沢で手一杯なため、この次期に参勤させていただいております。

さて、今日はいつもの月忌参りをしておりましたところ、とあるお宅にてなんとも言いようのない光景と出合いました。

いつもは、おじいちゃんとおばあちゃんがお参りされるのですが、今日は夏休みでお孫さんもいらっしゃいました。しかし、小学生(高学年?)の彼女は「おはようございます」と言って部屋に入ったボクに一瞥もくれずにテレビを見続け、読経が始まるとイヤホンをしてテレビ鑑賞を続けていたのです。

そして、おじいちゃんも、おばあちゃんもそのお孫さんに何も言わずお参りされていたのです。読経が終わっても、ずっとその姿勢を崩さない彼女、どこか苦々しい表情のおじいちゃん、お茶を持ってきてくださったおばあちゃん、お茶をいただきながら雑談を交わすボクが同居する、なんとも複雑な空間でした。

ボクがそのことについて一言、という雰囲気でもなく無力さを感じつつそのお宅をあとにしました。長年お邪魔していてるお宅でありながら、そのご家庭に一歩踏み込むことをためらうボクがいました。

実は、「若いもんには何も言えん」と苦笑されるお年寄りは、非常に多いのです。特にお孫さんの教育には、「時代が違いますわ」と何ひとつ叱らず、しつけられない環境にある場合が多いのです。

どうして、こうまでお年寄りの立場が弱くなったのでしょうか? ボクのおじいちゃんは、かわいがってくれた半面、非常にしつけには厳しい方でもありましたし、それに対して両親が意義を唱えたことはないように思います。

ボクがこのようなお宅に、思いきって「おかしい」と言うことで何が変わるわけではないかもしれません。でも、言わなければならないことではないでしょうか? 皆さんはどう思われますか? ご意見お聞かせください。

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続・兵戈無用

Bin041204181546009 今日は敗戦記念日です。首相が今朝ヤスクニに参拝されたらしいですね。コイズミさん個人が、個人の信仰に基づいて参拝されるのは自由です。この国の憲法では、信教の自由が保障されてますからね。

しかし、「内閣総理大臣」として参拝されることは政教分離に違反すると思います。前にも書きましたが、ヤスクニに参拝するということはどういうことか? A級戦犯が合祀されてるからいけないのでしょうか?

それ以前にヤスクニとはなんですか? 国のために戦って亡くなった方への思い、それはあって当然です。でも、戦争を決定した国の指導者にとって、国民を戦争に駆り立て、戦死したら神にしてあげますからという免罪符だったのが敗戦までのヤスクニの役割です。

ある調査では、日本が戦争したら国のために死ねますか? という問いに「はい」と答えたのは15%程度でしかないらしいですね。ボクもその問いには、きっぱり「いいえ」と答えます。なぜなら、人に殺されたくない以上に、人を殺したくないからです。

平素は人を殺すと罪になります。戦時は人を殺せば殺しただけ褒められます。そのひとつをとっても「戦争=異常」と言ってもよいのではないですか? 神になるといわれて死ねますか?

お国のため、そういわれてもまず考えるのは家族のことじゃないですか? それが一般市民じゃないですか? 国あっての国民なのか? 否、国民あっての国です。戦争を決定する国家の指導者たちが、銃弾の飛び交う前線に行くことは決してないところで戦争を決定します。だから、その前線で双方どれだけの血が流れ、一人ひとりの兵士たちの家族が血の涙を流していることまで考えているとは思えません。

東京裁判は勝者の一方的な裁きです。日本にA級戦犯が存在するなら、連合軍諸国にもA級戦犯は存在するはずです。そこには、敵国人民を殺し勝利したものが英雄とされる異常、すなわち戦時の価値観が存在します。ただ東京裁判が示した、戦争には、戦争犯罪という概念があるということ、そしてその戦争の指導者には罪があるという概念を示したということ、一方的であってもそこに大きな価値があると思います。

人類は、戦争すなわち悪という発想をいつになったらできるのでしょうか? 2,500年前に、お釈迦さんがおっしゃられたという「兵戈無用(ひょうがむよう=軍隊も武器も無用)」という思想はいつになったら人類は規範とできるのでしょうか?

アジア諸国が反発するから、A級戦犯が合祀されているからヤスクニを参拝したらいけないというレベルの話ではないのです。あなたは、そしてあなたの子どもや孫をヤスクニの神になるからといって、その命を国に差し出せますか? そんな時代の復古を望みますか? ということではないでしょうか?

前述を繰り返しますが、ヤスクニの神々に声があるとしたら、「二度と我々のような神を作らないでください」ということではないですか? それに「はい」と答えることが、今を生きる我々が戦争で亡くなった方々への何よりの答えなのではないでしょうか?

画像は、ピカソの「ゲルニカ」という絵です。ナチスドイツの支援を受けたスペイン内乱での空爆で地獄と化した街を描いた絵です。一般市民の望みは、平和な家庭というささやかなものであり、本来、国はそれを実現し、保持することがその役目なはずです。

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親鸞さんの思い

Dsc00351 掲示板に新たなご縁をいただきました。さまざまな疑問をお抱えのようで、ボクも思いつく限り掲示板上にてお答えしました。

その中で、「「親鸞聖人」の考えを絶対的なものとして、お釈迦様の考えより上に持ってくるのはどうしてでしょうか? 私には「仏教」でなく『親鸞教』のように感じて、違和感が感じられます」という疑問に少し驚きました。

そのように感じておられる方の存在はわかるような気がしますが、ボクたちからすれば、なぜそこにそんなにこだわるのか? というのが正直な気持ちなんです。お釈迦さんと親鸞さん、どっちが上でもどっちが下でもないです。ただ、お釈迦さんがいなければ親鸞さんは親鸞さんではなかっただろうということは確かでしょう。

「何宗であっても、元はお釈迦さん、みんなおんなじやろ?」と言わはる方も多いですね。だからこそそれを前提に親鸞さんの教え、真宗にご縁を受けた事実がある以上、親鸞さんがお釈迦さんの説かれたとされる浄土三部経を真宗の根本経典とされた意味を考えていくことが自然であり、お釈迦さんを否定したり、親鸞さんをお釈迦さんより上位に考えているわけではありません。

まず、目前にあるご縁を事実として受け止め、引き受けていくこと、そこからしか一歩も前に出ることはできないこの身なのです。親鸞さん自身、20年の長きにわたって比叡山にて膨大なお釈迦さんの教え「仏説」と向き合った結果、浄土三部経を見出され、自身が山を降り広く一般民衆の中に溶け込んでいかれました。

それから750年を経た現在、真宗にご縁を持つご門徒が数多く健在な事実を、この身がそのひとりであるという事実を、まず引き受けていくこと、そこからしか親鸞さんの思いは見えてこないと思います。そこを引き受けずに知識や表面から感じる疑問は、食べず嫌いのようなものなのかもしれませんね。それこそあなたのご先祖が、あなたまで受け継いでこられた歴史と事実があるのですから。

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ご先祖とは?

Dsc00466_1 全国的にお盆間近ですね。金沢では先月の新盆で終わってるので、ボクの八月はヒマです(笑)。みなさんはどんなお盆をお過ごしになられるのでしょうか?

郷里に帰省し、お墓参りをされる方も多いかと思います。では、お墓参りはなぜするのでしょう? 俗にお盆には、ご先祖がお浄土からかえってこられるのをお迎えすると思われているようですね。

本当にその霊魂とやらが帰ってくる、来ないはともかく、ご先祖とはどういう存在なのでしょうか? 想像力をふくらまさず、具体的に考えてみましょう。

まず、身近なご先祖、両親を思い浮かべてみると、そのひとりひとりにふたりづつの親、つまり両親には4人のご先祖がいることになり、その4人には8人のご先祖、そのまた上には16人のご先祖が・・・、と考えると膨大な数のご先祖が存在します。

むろんお墓の中には、直系のご先祖しか入っていないかもしれません。しかしながら、そんな膨大な数のご先祖、そのひとりが欠けても、この身は、この世に存在しない、事実としてそれが確認できるわけですね。そんな命のつながりの中で、この世に生を受けること自体が奇跡のようなことであるわけです。

お釈迦さんの有名な逸話に、「天上天下唯我独尊」という言葉が出てきます。これは、そんな奇跡のような命のつながりからこの世に生を受けたこの身は、天の上にも下にもオリジナルとして唯一の存在として尊いのだ、というご先祖とこの世に生を受けたことへの感謝の言葉なんだと思います。

お墓参りをし、ご先祖に思いを馳せる、そこからご自分の中に生きてくれている命が、けっして粗末にしてよいものではない、大事な尊いものだということを知り、そのことをご家族一緒に確認していくご縁としていただきたいものです。

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善人のモノサシ

Dsc00494いきなりですが、疲れました(苦笑)。

今週は、お葬式が3軒続き、そのうち2軒は富山県でした。前述のIさんのお葬式を1日がかりで終え帰宅し、ほっとしたところへ電話が鳴りました。ある予感をもちつつ出てみると、「うちのおばあちゃんがなくなりまして・・・・・」とのこと。

現南砺市の旧城端町のIさんからでした。お悔やみをお伝えして、日程をうかがうと、ちょうど土曜日のお通夜、日曜日のお葬式になる。お通夜は現地のお寺さんのみで執行されるとのことでしたが、お葬式はそうはいかない。すでに11時には同市旧井波町でのご法事が入っていることをお伝えし、お葬式を10時執行、中陰(骨上げと繰上げ初七日法要)も現地のお寺さんにお任せということで打ち合わせが終了しました。

というわけで、本日は朝9時に出発(井波のご法事はボクだけなので、役僧T氏とは現地集合&解散)し10時に城端でお葬式、着替えもそこそこに井波に向かう。なんとか11時を5分すぎて井波に到着しI家の7回忌法要を勤め、お斉がないため12時には辞去する。砺波ICから高速に乗り、金沢森本ICから外環状線経由で野田町のN家~大桑町のY家~尾張町のN家の月忌参りをして2時帰宅。

ひさびさにハードな日程でしたね~(苦笑)。重なるときには重なるもので、たまにこういう日が、年数回ありますね。でも、心がけることはこちらは前の予定も次の予定もありますが、その一軒一軒のお宅にとっては前も後もないということです。むろん人並みに疲れ、ストレスはたまりますが、それはお葬式や法要を営むお宅には無関係なことです。

そんなときに思い出すのが、冒頭の画像にある文章です。自分のモノサシだけで納得し、それを正義化して物事をはかっていくこと、それを善人という、ということだと解釈してます。親鸞聖人の悪人正機説の根拠はこの言葉にあるように思いますが、みなさんは善人化してますか? してませんか? どんなときにしてますか?

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仏さんに成る

Hida また思い出深い方がご往生なさいました。

電話が鳴ったのは夕べ深夜1時半ごろでしょうか、寝ぼけ眼で出てみると「井波(現富山県南砺市)のIさんがお亡くなりになりました」とのこと。こういう遠方の場合、枕経(ご自宅に戻ったご遺体とお内仏での読経)は当地にお寺さんにお任せしますが、いち早くお知らせくださったのでした。

享年89歳(数え年齢)のIさんは、彫刻で有名な井波町でも有名な彫刻家であり、数年前体調を崩されるまで長年にわたり井波町の当寺ご門徒の世話役も務めていただきました。

それ以上に非常にやさしい好々爺であり、またときには厳しさももったお人柄で、ウチの両親とも親しく交友させていただいておりました。また、当寺改築の折には、座敷に貴重な欄間をご寄付いただきました。

ここ数年は、半ば隠居されお身体をご静養されておられ、なかなかお会いするご縁もございませんでしたが、昨年にはご本家でのご法事に出席されていた際にお会いしたのが最後となりました。

Iさんは、亡くなられた時点で仏さんに成られました。それは、我々に死という教えを身をもって説いてくださる存在となられたということであり、我々は合掌という形をもってその教えを受け取っていきます。合掌。


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阿弥陀さんと鬼神(その1)

11903701 毎年、今ごろには梅雨明けし、子どもと海へ行くんですが、今年は予定がたちません。

ちなみに、今日は快晴ではあったんですが、土曜日とあって子どもは野球、ボクはご法事なので無理です。まぁ、最初から土日や祝日は予定外にしているので、それはよいのですが、なにも土曜日に晴れなくても~、とちょっと恨めしく太陽を見上げていました(笑)。

毎年行くのは、能登羽咋の千里浜海岸なんですが、ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、なぎさドライブウェイ(写真)といって、砂浜をクルマで走れることで有名なスポットです。

しかし、年々その砂浜がどんどん侵食され短くなっています。千里浜近在の友人Nちゃんいわく、「ガキのころの砂浜は、今、遠浅になってるとこまであったんや」と言うのを聞いてびっくりしました。

海岸の浸食は、地球温暖化による海面上昇のほか、その海に流れ込む川の上流にダムや砂防ダムができて、砂の流入が減少したり、海岸線に防波堤などの人工建造物のために砂の移動が不自然になること等が原因といわれています。

温暖化はもちろんですが、そのほかの原因もすべて人間の所業なんですよね。よく「母なる大地」という言葉を聞きますが、専修学院時代に「大地は阿弥陀さんそのもの」ということを聞きました。

というのは、大地は老若男女、卑賤、出自を問わず受け入れてくれている存在という意味で、阿弥陀さんの働きに例えられたんですね。しかし、その大地の存在も信心のない人間があまりにも多くなった現代社会に絶対ではなくなりつつあるのかもしれません。

これは、阿弥陀さんへの信心が不明確になってきたことと連動しているようにも見えます。その原因は、あるかないかわからないもの、つまり占い、吉凶、霊魂、祟り等への畏怖や依存、そして信心が大きく関わっていると思います。

親鸞聖人は、そのご和讃の中で

かなしきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ 天神地祇をあがめつつ 卜占祭祀(ぼくせんさいし)をつとめとす

と言われ、さらに

かなしきかなやこのごろの 和国の道俗みなともに 仏教の威儀をもととして 天神の鬼神を尊敬す

と、聖人は700年前から占い、吉凶をあてにし、金銭によるご利益を売り物にする神々を頼りにする民衆を「かなしきかなや」と嘆いておられます。

良い悪い、好きも嫌もなく、目の前にあるご縁、そして自分をあるがまま受け入れていくこと、与えられた今を精一杯生ききること、それが阿弥陀さんの願い(本願)です。

この続きは、またの機会にいたしましょう。

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