台風一過で、今日も猛暑の1日でした。
さてこの8月、今年もあの戦争にまつわる番組や映画を観賞しました。
その中で、30数年ぶりに観た「ビルマの竪琴」にいろいろ思い、感じました。
敗戦直後、目の当たりにした放置されたままの戦友たちの遺体を葬るため帰国せず現地に残る兵士のお話です。
その想い、行動はとても尊いことで、なかなかできることではありません。
ただ、仏教とはそこが入口であってその先がなかなか思い至りません。
人の死は悲しく辛い、何かしてあげたい、それが一般的に言う供養であり、慰霊なのかもしれません。
でも、故人は死をもって仏さんと成り、必ず死ぬいのちを生かされてあるわが身を教えてくださいます。
いのちを亡くした仏さんが、まだいのちある我々にいつ尽きるかわからぬ今を生かされてあるんですよ、と呼びかけてくださっています。
しかし、そのことに気づかず、亡き方に何かをしてあげられて良かった~で終わってしまうことがほとんどです。
乱暴な言い方をすれば、それは自己満足にすぎません。
仏さんの教えを聴き、自分を、ご縁あるすべての人をいきるいのちの存在に気づき、そのいのち尽きるその瞬間まで精一杯大事に生きる生き方をしていくことが、亡き方の願いに応える=供養ということでないかと思います。
朝な夕なにお内仏に手を合わすたびに、無数のご先祖方が教えてくださる呼びかけにどうぞ耳を傾けていただきたいものです。
世の中安穏なれ。
合掌
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