最近、天気予報で雨となっていても降るような降らないような中途半端な日が多く、気温は髙くないのですが、やたらと蒸し暑いということが多いです。
夏の疲れは出てくるころ、さらに身体にダルさを感じます。
ご自愛ください。
さて、大坂で痛ましい事件が起き、連日の報道か喧しいですね。
逮捕された容疑者が黙秘を続けていることから、詳細はわかりませんが、何やらよくわからないことだらけです。
ただ、被害者となったふたりの中学生について、わからないことだらけで、疑問だらけです。
中学生といっても、ほんの半年前まで小学生だった彼らが、夏休み中とはいえ、なぜ深夜から早朝にかけての時間を商店街で過ごしていたのか?
親はいったいなぜ、それを放置していたのか?
ケイタイを所持していれば、いつでもどこにいても連絡は取れるということか?
などなど。
写真を見れば、まだまだあどけない顔の子どもたちです。
ネットでは、さまざま真偽不明の情報が飛び交っていますが、親の在り方を考えさせられます。
親は、子どもを見守り、道を踏み外さぬよう導く義務があるはず。
親といっても万能ではないし、ときには過ちも犯します。
しかし、まずまっとうな大人として、そして親としての自覚がどれだけあるのだろうか? と。
いくつになっても大人になりきれない、年齢だけの成人が増えた感は日頃から感じています。
身なりでどうこう言うのもなんですが、いつまでも女子高生のような恰好をしている母親などには「?」と思わざるを得ません。
いつまでも、自分の楽しみが優先で子育ては二の次では? とも思います。
そして、ケイタイを始め便利なものを買い与えることで、子を直接みていなくとも良いことが増えているようにも感じます。
子育てとは、未成熟な者を育てることですが、子育てをすることで、親は成熟した大人になっていく、つまり自分も育てられるということではなかろうかと思います。
自分のことが優先であればあるほど、ときに子育ては邪魔で面倒くさいものと化してしまいがちです。
子どもは大人を見て真似をして育ち、その対象はいちばん身近な大人である親を真似て育つ部分がとても大きいのです。
見られている自覚、見本となる自覚、それが大人、そして親の自覚です。
むろん完璧な大人などいないでしょうが、その至らない部分も含めた自覚の有無が大事です。
むしろ、至らない私、無能な私、愚かな私という部分の自覚を持つことで、子どもとの距離も近くなるのではないかと思います。
つまりは、生きることそのものと同じなんですね。
至らないから、愚かだから、人は支え合わずには生きていけない生き物なんです。
支えられてある私は、また誰かを支えることができる私で、その最たる存在が我が子ではないしょうか?
もっと子どもを見てあげましょう。
しゃべりましょう。
褒めてあげましょう。
叱るときは、感情的にならず、なぜいけないのかをちゃんと教えてあげましょう。
ともに大事な時間を生きましょう。
合掌
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