スーパーにお買い物に行くと、早くも節分の豆やバレンタインデーのチョコレートが売られていて、季節の移り変わりの早さとともに商魂のたくましさを感じます。
大寒に入りましたが、その大寒の最後が節分なんですね。
季節を分けるとか。
節分という行事は、厄除けなどの意味あいから、本来は神事であろうと思いますが、寺院でも年間行事として行われているところもありようです。
寺院といっても、宗派によって大きく差異があって、ひとくくりにはできません。
ただ、真宗的な解釈をするならば、人の中に存在する「怒り・貪り・愚痴る=三毒」という鬼の存在を認識し、自己を見つめなおすご縁とする、ということになるでしょうか?
この鬼は、祓ってなくすことのできるものではありません。
豆をまくなら、その鬼のいる自分自身への戒めや、反省の意味合いでしょう。
人は、内に鬼を持つからこそ、愚かであるということです。
その愚かさを認めず、向き合わないことは、より愚かであるでしょう。
わが身の愚かさを自覚する言葉「南無阿弥陀仏」を唱えることで、阿弥陀さんは愚かなまんまの私を救うと誓いを立てられています。
愚かだからこそ、ともにお念仏を唱えましょう。
合掌
コメント
浄土真宗では節分はしないですよね。(確か…)
個人的に、親しくさせてもらっている曹洞宗のお寺では、節分は大事な行事だったようです。
「祈願」もします。わたしは「病気平癒」ということで祈願したのですが、
私の「浄土真宗」は、祈願をしちゃいけない。そのことは知っていたのですが、まあいいか…。
~阿弥陀如来様も親鸞聖人を許してくださるだろう。~…と思いつつ、その後のお汁粉に舌鼓を打ちました。
投稿: 鹿児島のタク | 2014年1月23日 (木) 07時22分
真宗寺院で、行事としての節分はしませんね。
ただ、世俗の習慣や行事に参加することをどうこう言うこともありませんので、安心して豆まきしてください(笑)。
投稿: Kei@住職 | 2014年1月23日 (木) 21時59分
私は石川県の田舎の戦前生まれで、報恩講が最大の行事でした。報恩講のお参りがお寺で終わった後は、村で酒盛りの宴会でした。これは年代別で、私は青年団で坊さんと一緒に肉を囲炉裏で焼きながら食べました。お坊さんは、感謝して食べる限り肉でも魚でも坊さんが食べても結構と言っていました。
最近に成って、浄土真宗、阿弥陀仏の事が何となく分かるような気に成ってきましたが、現在を一生懸命に生きているかと言うと自信が有りません。妹は浄土真宗の熱心な信徒です。何ごとも阿弥陀仏に任せておけば OK 。
ただし南無阿弥陀仏だけは声に出して言えと言っています。わたしは、法事や墓参りの時は、これを心がけています。
投稿: tom-j | 2014年1月25日 (土) 19時26分
tom-jさん、コメントありがとうございます。
農村では、神社の祭りと同じように、報恩講は晩秋~初冬のビッグイベントだったんですよね。そして、おっしゃるとおり、青年、若嫁、爺、婆などの年齢別の報恩講があって、村全体の報恩講を総報恩講(そうぼんこ)と呼び、餅つきをして村中の親戚が集まって正信偈をお勤めしお斎をいただきました。
今でもその習慣が残っている村もありますが、その規模は昔と比べるべくもないですね。
お念仏は、感謝を忘れ、命を大事にせず、人を傷つけ貶めるような言動をしがちな愚かなわが身を自覚する言葉であり、その自覚する者をその愚かなまんま救いましょうとおっしゃる阿弥陀さんに帰依する言葉ですね。
朝な夕なに、声に出して唱和することは、とても大事だと思います。
合掌
投稿: Kei@住職 | 2014年1月26日 (日) 20時31分