報恩講シーズンの開幕ともいえる、内灘地区のご門徒宅報恩講を2日半にわたって終えました。
この地区の当寺ご門徒は、この20年で3分の1に減少しました。
というのは、ここにはもともと当寺の道場で、戦後寺院となったG寺さんがあって、今でも平常の月忌参りはお任せしていたり、報恩講やご法事、ご葬儀時には随伴していただいています。
いわゆる大寺と下寺の関係で、ご門徒さん方もそれを承知してのご縁だったのです。
しかし、そんな歴史や関係性を理解してくださるお年寄り方が亡くなると、それを知らない若い方が、「なんで? ふたつも寺いらんやろ?」と近くて毎月来ているG寺さんだけで良いと、当寺門徒を離れるということが起こるんです。
それはG寺さんに非があるわけでなく、各家での年代の断絶によってそんな歴史や関係性が伝わっていないし、当寺もそれを伝えることがなかなかできてこなかったことが原因かと思います。
たとえば、今年も見受けられた光景ですが、とあるお宅にボクとG寺さんがお邪魔すると、土曜日とあって幼いお孫さんが数人来ていました。
しかし、そこの爺ちゃんも婆ちゃんも、「ほら、みんなお参りするぞ」等と声をかけることが一切ないんですね。
で、孫たちは隣の部屋でテレビを見ながら騒いでいるまんまです。
幼い子どもたちには、お参りの意味もわからず、またおとなしくお参りするとは思えませんが、ほんのひと時でも仏前に正座して手を合わす経験をさせてあげることが大事なのでは? と思います。
一度、そういう経験をすると、次回からはお内仏があると、その前にいって手を合わせたりするようにもなったりします。
そういう幼児体験は、意外と後々まで脳裏に残るものなんですよ。
わからないだろうからとか、すぐ騒ぐからと、教える機会を失っていることが多々あるんですね。
家というものは、家族があって、そこから出た人にとっても大事な場所であり、ご縁によって人が集まる。
そこで、そんなご縁ある親族たちが、その家のご先祖方が大事にしてきたお内仏の前で手を合わすことこそご先祖を大事にするというこになると思います。
若いもんに言ってもアカン。
そんな声も聴きますが、みんな若いときはそうだったんじゃないですか?
でも、それでも言われ、教えられてきたから今は理解し実践していることが多くあるわけです。
うるさがられても言うべきことは、ちゃんと伝えておくことが親の、大人の役目ですよ。
それが、子を大人にする手伝いともなるのですから。
合掌
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