寒い日が続きます。
って、春の挨拶ではないですねぇ(苦笑)。
そんな最近の月忌参りでこんなお話を聞きました。
近所の独居老人の爺ちゃんが施設に入ったという話ですが、その話を聞かせてくれたのも独居老人で米寿を迎えたH婆ちゃん。
その爺ちゃんは、まだクルマの運転もされて自分のことは自分でされていたというにも関わらず、町会の人たちが離れて暮らす親族に施設に入ることをすすめたとか。
なんとなく違和感を覚えたH婆ちゃんが、その経緯で聞いた言葉が「なんかあってからでは遅いし、町会で責任とれないから」というものだったとか。
何ですかそれは??
確かに独居老人の孤独死があって、それに気づかない周囲(近所)の人々のことが疑問視されています。
しかし、だからと言ってまだ何も特筆すべき迷惑をかけてもいないご老人を、独居だからいずれは~という発想はいかがなものでしょうか?
H婆ちゃんは、「孤独死て言うたって、みんな死ぬときは独りで死ぬもんでしょ?」と寂しそうに言いました。
その通りです。
たしかに認知症によるご老人による怪行動はあり得ることですが、まだ認知症でもない爺ちゃんを認知症予備軍とばかりに、いずれは何かしでかす、そして我々に迷惑をかけるというおかしな想像力の逞しさには一種の恐怖すら感じました。
人は独りで生まれ、独りで死ぬ。
ただ、そこに寄り添う人がいるかいないかということ。
親族でないから他人、他人だから寄り添う義務はない、だから勝手に死なれて責任を押し付けられたり、外聞が悪いと困る。
なんなんでしょうね、この悪い意味での想像力は?
会や集まりは、人が寄り添いご縁を紡ぎ合うために必要かもしれせんが、こんなふうに会のための会なら不要ではないでしょうか?
人を気にかけ合ったり、寄り添い合ったり、それができない、する気がないのなら人と人が町や村を形成し、肩を寄せ合って暮らす必然性さえないのはないですか?
H婆ちゃんは、とてもお元気です。
でも、この一件で「明日は我が身」という恐怖心を持ったのではいかと、ボクは心配でなりません。
独生独死。
ただ、その瞬間に寄り添う人でありたいし、寄り添われたい。
そう思います。
合掌。
コメント
看護学校に通う2年生です。
祖父と祖母が亡くなり、4年前から葬儀だけでなく法事を含むと、毎年行っております。
祖父と祖母が亡くなるまでに全人的尊厳というのは、何度も考えさせられました。
しかし、死生観というのがどうゆう意味を持つのかが分かりません。
それは、生きている状態だけを指すのでしょうか、亡くなった後も続く事を指すのでしょうか。
投稿: みか | 2013年4月14日 (日) 23時13分
みかさん、コメントありがとうございます。
仏事が続き、いろいろ感じたり、思われたり、考えたりするご縁をいただかれたのですね。
生きている状態、それは意識がある状態なのか、心臓や脳が動いている状態を指すのか、その定義がむずかしいことだと思います。
ただ、ボクが思うのは、健常者のモノサシで判断して良いのか? ということと、お医者様は医学の専門家であっても心理学者でも宗教家でもありませんので、死なせない努力をされるものだということです。
仮に昏睡状態で何年も寝ている方がいたとして、それを無意味と言うことは誰にもできないと思います。死んでいないという事実がある以上、その方が死なずにいる意味が必ずあるということだからです。
たとえば、その方の心の奥底では長い長い夢を見続けていて、それが終わらないうちは死ねないのかもしれないし、それはその方の人生を決算するのに費用な作業なのかもしれません。
そして死を迎えた方は、みな仏さんに成られます。人は必ず死にゆく生を生かされてあることを、身をもって我々に教えてくださる仏さんです。その仏さんの教えをいただき、自身の生と死をしっかり見つめるご縁が、ご法事などの仏事です。
亡き方に何かをしてあげるのではなく、亡き方から教えられ、案じられてあるのが私なのだということだと思いますよ。
答えになっていますでしょうか?
投稿: Kei@住職 | 2013年4月15日 (月) 07時45分