パソコン、iPhone、iPadとデジタルデバイスに囲まれた生活をしております(苦笑)。
先日もiPhoneとiPadを同時に充電できる充電器を購入し、喜んでおります(笑)。
で、ツイッターやフェイスブックなどでいろんな出会い、交流、意見交換が日課となっておりますが、昨夜は「長生きしたいか、したくないか」というツイートがありました。
ボク個人的には、とても長生きしたい人です。
一昨年お迎えした親鸞聖人750回御遠忌ですが、ボクは800回御遠忌まで長生きして息子にご本山へ連れて行ってもらいたい、などと思っています。
もし、かなうならボクは95歳ですけども(汗)。
ただ、現在の社会的な先行きの不安や、経済力や家族構成などによって「長生きしたくない」と思う方が多いのかもしれません。
ボクは、僧侶として仏教者の端くれとして、賜った命を大事にすること、生かされてある今を無駄にしないこと、の積み重ねの結果が長生きであったら良いのになぁと思うんです。
仮に寝たきりであったり、認知症で何もわからないと思われる状態であったとしても、賜った命が尽きるその一瞬まで生き切ることがボクにできる命を大事にするということだと思うからです。
そのためには、たぶん家族に迷惑をかけることでしょう。
でも、家族だから迷惑をかけ合える存在であり、それを忌避するような社会状況や、責任の所在ばかりをモノサシにしたギスギスした環境の方がむしろ不健全なのではないかと思います。
人は、大なり小なり、他の存在に迷惑をかけ合い、依存し合って生きているし、その関係性で成り立っているのが人間社会です、本来的に。
幼き日にオムツをかえてくれた親、その親のオムツをかえる日が来るとしたら、これ以上の恩返しはないと思いませんか?
そんな状態になって、言える「ありがとう」と、聞ける「ありがとう」という言葉は、とても尊いものだと思います。
歳を取れば身体に不都合が生じることは必然です。
だからこそ寄り添い合える家族、社会を求めますし、その社会の一員としてそれを支え合える人でありたい、そう思います。
合掌。
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