ぷち同期会
大谷専修学院岡崎学舎です。
ボクは大学を出た後、教師資格(=大谷派僧侶資格)を取得するためにここに入学しました。
寮に入って本科1年(希望者はさらに別科1年)を過ごすのですが、昨夜は本科時代の同期生が神奈川から金沢に来て、こちらの県内にいる2人とボクと計4人でぷち同期会をしました。
積もる話、今だから話せるエピソードなど盛りだくさんで、あっという間に午前さまでした(苦笑)。
1年という濃密な時間をともに過ごした仲間ですので、本当に楽しい時間でした。
おかげで今朝は寝坊して、月忌に遅れてしまいましたけど(汗)。
この学校が全寮制なのはブラザーシステムと呼ばれる、共に生活するなかで真宗精神を体得するという目的のためです。
テレビも、ラジオも、冷暖房も、携帯電話もなし! の1年間です。
下は高卒すぐの19歳から、上は定年退職し僧侶になろうという60代や70代の方まで幅広い年代の男女(比率10対1くらい)がともに暮らします。
テレビ、ラジオ、携帯などがないから、しゃべるしかない(笑)!
時にはケンカもあり、腹のぶっちゃけ合いの末、いやでも毎日顔を合わすのでいつのまにか分かり合えたり、そんな生活でした。
よく同じ釜の飯と言いますが、そんな仲間との貴重な再会でした。また、ぜひ今度はどこどこで集まろう! と言い合って別れました。ありがとう!
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コメント
いいですね。いいご経験。本音を言い合えた1年は素晴らしい経験でしょう。
世の中本音を言わないが故に、匿名サイトで自己中丸出しな人々が汚い言葉の洪水を垂れ流しています。
でも親鸞さんなら現代では彼らこそ凡夫で仏の慈悲があると説く。今時浄土だの、阿弥陀仏だのと、あり得ないお伽話だと思ってるでしょう?
汚い言葉で罵るのは相手を信じては居ない、受け入れては貰えない、そんな自己欺瞞の蔓延では?親鸞さん当時も、ホントに浄土に行けるかわからないから南無阿弥陀仏と念仏した。だから死ぬまで不安は消えなかった。
そこに親鸞さんが現れて、「信じる」事の大切さを説かれた。信じるなら、不安は消える。これを分かりやすく、仏の慈悲は今みんなを照らしていると説かれた。念仏にすがらなくても、信じる心があるなら、不安はなくなると、何かにすがらずに、前を向いて生きよと言われた。
信じる心が芽生えて、自分の醜さと凡夫であることを知った時、人は前を向けるのでしょう。それを願いたいですねぇ。南無阿弥陀仏。
投稿: 加藤 隆志 | 2012年7月 4日 (水) 20時33分
この学院でも、最近はなかなかぶっちゃけ合いをしない人が増えたと聞いています。
携帯やPC越しの会話が中心になり、目と目を見て話すことの経験値がとても低いんでしょうね。
目は自分と違うものを見るために、耳は人の声を聞くために、口は自分の言葉で語るためにあるもに、鼻は匂いを感じるためにあると思うんですが、携帯やPCは使いこなせても、備わった自らの機能を使いこなしていないように思います。
ものを言わぬ者は恐ろしいぞ、蓮如さんはそうおっしゃいました。腹を割って話せと。
投稿: Kei@住職 | 2012年7月 6日 (金) 19時50分
真宗を本当に信じているならば、自分の心に湧き上がる正直な言葉は、他力のなせることですから、何を恐れることもなく、自信を持って声に出せばいいのですもんねぇ。何も私のように(汗)話術巧みに喋れる「技」が無くたって、気持ちは伝わるのですから。
もの言わぬものは恐ろしいというのは現実化しておりまして、残虐な無差別殺人を犯した人間の幼少期は、
手のかからない、大人しくて優しい子供
だったと。これを精神科医は、
「手のかからない、大人しくて優しい過去症候群」
と呼ぶほどです。それほど
子供時代の親や周りの環境が恐ろしくて何も言えなかったことの裏返し
なんだそうでございます。
投稿: 加藤 隆志 | 2012年7月 8日 (日) 17時57分