以前にも書いたように思いますが、「家族葬」という形を望む方がぼちぼちいらっしゃいますので、また書きます。

そもそも「家族葬」などという言葉は存在せず、1990年代に某葬儀社によって生み出された造語です。
同じように思われている「密葬」とは、直葬とも呼ばれごく近親者のみのお別れの後、文字通り火葬場へというもので、これには経済的だったり、あらゆる立場的なものだったり、それなりの理由があってなされるもので、普通はいたしません。
それに比べて「家族葬」は、家族など近親者と一部の知人のみで執行され、一般弔問は受け付けないというものです。
この一般弔問を受け付けないという部分が、実はこの「家族葬」の大きな問題点なんです。
人は生まれてから死ぬまでに無数の人々とのご縁を得て過ごします。
その人生の中で、自我によってそのご縁を好き嫌いと分けていても、出会っているご縁はけして消せるものではありません。
その無数のご縁のうち、たったひとりであっても、その人と出会った私と、出会わなかった私とでは別人です。
今、存在している私は好き嫌いを超えて出会った無数のご縁によって成り立っているということです。
その無数のご縁あった人々が、この私の死を知ってお弔いに行きたいと思うか、思わないかはそれぞれでしょう。
でも、その私の人生を形成している無数の人々に、私の死を知らせるということこそ、私の人生を終えるということではありませんか?
家族など近親者への愛情の深さはわかります。
でも、ひとりの人間の一生は思っている以上に深く広いご縁によって過ごさせていただいてきたのです。
「家族葬」という考え方は、そんな私自身の一生を形成する無数のご縁を断ち切ってしまおうということに他ならない、ボクはそう思います。
私の死を聞いて、お弔いの来られた方、体調など諸事情によって来たくても来られなかった方も、また自身の人生が無数のご縁によって成り立っていることをあらためて感じていただければ、これ以上のご葬儀はないのではないでしょうか?
ご葬儀などを勤めることによって、家族や近親者に手間をかけさせたくない、そんな思いも大きいようですが、あなたの大事な家族が、あなたをまた大事に思う関係が築けているなら、その手間をかけてもらっても良いのではないですか?
ひとりの人間の一生とは、それだけ重くて深いものであり、だからこそその死をしっかりと、ひとりでも多くのご縁ある方々とともに受け入れていくことが大事なのではないか、そう思います。合掌。

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