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怒り・腹立ち・妬み・嫉み

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怒り(いかり)

腹立ち(はらだち)

妬み(ねたみ)

嫉み(そねみ)

人の持つ、とても嫌な一面です。

というより、これらからの衝動によってとんでもない言動を取るから人は怖いし、とても愚かです。

死刑になりたいから人を殺す。

いただいた生命の所有化の果てにあるのが自死です。

その手段として人を殺める行為は、なんとも痛ましく愚かで罪深いことでしょう。

その犠牲となった方の生命には、もはや何も言うべき言葉さえ見つからない。

私の生命、ではなく、生命があなたを生きてくれてるんです。

つまりあなたの所有物ではないんです。

好き勝手にしたらダメなんです。

わかってください。

考えてください。

想像してください。

そして、ご縁ある親しき人と語り合ってください。

人は愚かで弱いから、寄り添い合える関係を皆で築き合いましょう。

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「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

私は怒り(いかり)、腹立ち(はらだち)、妬み(ねたみ)、嫉み(そねみ)が、
自分の価値観を中心に世間を見るから起こってくる
と言うことを真宗に出会う前(勿論家は真宗でしたが、親鸞さんの教えを深く学ぶ前という意味( ̄▽ ̄;))に、自ら気づいてはいたのです。うつ病にかかって、今までの自分が原因だから、自分を変えないと再発してしまいます。カウンセリングにかかり、物事の「捉え方」を学んだということです。あるがままの世間を見、自分を悪いところもいいところもそのまま許容する訓練をしたんです。

そして自分の考えを自分でツッコミを入れながら生きていた。そうするとどうやら「世間には物事の考え方の中心」になるものが無くて、みんなそれぞれがそれぞれに、それなりに生きていることも気付きました。だから自分はこう思う、としても他人様は違うんだと。それでも、自分の意思表示は必要だし、人様の言うことに腹がたっても我慢することは無いんだとも思った。

問題だったのはそう気づきながらも、最後のココロのジグソーパズルのピースが埋まらなかったのですね。では、人生ケ・セラ・セラなのか?何か釈然としないなと。それは私のココロの拠り所が無かったのです。

仏教の勉強はしていましたが、釈尊の考え方にある程度同調しつつ、しかし執着は良くない、という所にひっかかった。勝利への執着は感動を産んだりもするし、無駄な殺生をするなと言えど、蚊やハエは病気を媒介するからやっぱり殺さないといけないねと。

しかし最後に浄土真宗の教えがココロのジグソーパズルの最後のピースを埋めたのです。それは阿弥陀仏に帰依することは、私がいつも思う、人智をはるかに超え、宇宙と自然と人の営みすら包含する抗えない見えない力の存在を信じることとほぼ同じだったこと。そして阿弥陀仏に信心したらもうそれで救われているのだと。

私にはココロの拠り所となる中心が無かったのですが、これで救われたのです。つまり、ケ・セラ・セラではないし、自らの考えを主張しながらも他人様は他人さまの都合で生きている、と考えるより、もともとあらゆるものが阿弥陀仏の智慧と慈悲の光に照らされて、ご縁を結びながら繋がっていて、それが「他力」であり、阿弥陀仏の「本願」がもたらしているということ。つまり宗教心ということですね。

それは父の葬式で今はすっかり我が家の友人となった、高槻の浄正寺さんのお説教からだったのです。
「体というのは借り物の器なんです。母親の中で器ができて命が宿り、約一年後に生まれ出て、歩けもしなければ、寝返りも打てない。それがやがて歩き、喋り、考え、器が成長し、やがて老いて、病気もして、四苦八苦して、こうしてまた再び動きにくくなり、衰え、歩けなくなり、動かなくなり、命は元いた所に帰っていくのです。この器に命が束縛されるから四苦八苦するのであって、今故人様は束縛から開放され、四苦八苦のない世界へ元いた所に戻っただけで、往生を心配している皆さんを、哀れに思っているのはむしろ故人様のほうであり、故人様が皆さんを心配しているのです。」

一切が他力本願であって、決して何か自分が成し得たとしてもそれは、自力でなくあくまでも、借り物の器が、阿弥陀仏のお力で成し得たに過ぎない。それは自分だけを照らす阿弥陀仏ではなく、全てをあまねく照らす阿弥陀仏のお力あったればこそだと。

今歎異抄をよんでいますが、結局南無阿弥陀仏と念仏することは、自力を頼むのではない。故人をよろしくお願いしますという供養であってはいけない。供養に南無阿弥陀仏と唱えることすら、もうそれが、他力の私物化なんだということ。

父の死は、大きなものを自覚させ、新しい人生の出発になったのです。常に計り知れない無量寿仏、不可思議光に畏敬の念を抱き、ひたすらその他力を信じ、他人にとって私は阿弥陀仏の力の一部であり、そしてそれ以上のものでもそれ以下のものでも無い。たまたまご縁でこんな便利な環境に生まれ出発に過ぎず、飢餓に苦しむ土地に生まれなかっただけ。

こういうとてつもなく大きな営みに気付き、自らの存在の小ささを思う時、人はそれ故に、まず物事を自分の思い通りにしたいとは思わないだろうし、思い通りになるはずもないことが分かるだろうし、ましてや他人を殺したいとは思わないでしょうね。自分の体すら借り物で私物ではないのですからね。世の中を儚んで自殺したくなるのは、自力を頼みにするからでしょう。他力本願の大きな世界に体を投げ出して、阿弥陀仏の他力本願に身を委ね、信心するなら、人はみんな小さい存在ながらも、それぞれが必要な個であり、阿弥陀仏はすがるのでなく、阿弥陀仏を背にしてそのお力を信じて、前だけ向いて生きて行きたいと思っています。

あぁ、こんな素晴らしい気付きに至った経験を語る機会があればいいのになぁ。浄正寺さんにはお坊さんに向いているから、お坊さんになりませんかと (^O^)アハハ!!。しかしそうすると、今の東本願寺に再就職することになって、決して転職しても、自分の気付きを法話することなどできないでしょうしね。それにお弔いさんになってしまうのが現状だから。

その為に、むしろ浄土真宗に帰依する方々とお会いしながら、これから布教していく方法は無いのか、浄土真宗独特の、煩悩があるまま涅槃に至れるという考え方も含めて、他力本願の哲学を広める方法は無いのか、模索していくのがこれからの課題でしょう。そう願いながら、正信偈をほぼ毎日夕食後に仏壇の前で唱えながら過ごしています。いずれ阿弥陀仏の力があるべき方向に導くのではないかと思っています。

また、長いなぁ、これ( ̄▽ ̄;)。浄土三部経の現代語訳、そして浄土三部経と正信偈の解説本に、歎異抄の解説入り現代語訳を読んで、マイブームが浄土真宗になってるおいら。この阿弥陀仏への帰依が始まってから、私の浪費癖や新しいもの好きにある程度歯止めがかかったんです。裏を返せば、ココロの隙間を埋めるための衝動が、そのピースが埋まったので、ココロが落ち着いたんじゃないかなぁ。

…とまた長い締めで失礼をばいたしますた( ̄▽ ̄;)。

投稿: 加藤 隆志 | 2012年6月13日 (水) 01時40分

怒り(いかり)、腹立ち(はらだち)、妬み(ねたみ)、嫉み(そねみ)は、けしてなくならない。ただ、そんな自分の罪深さを見つめ、自覚する言葉が南無阿弥陀仏です。だから、南無阿弥陀仏を称える者に阿弥陀さんは、そのままのあなたを救いましょうとおっしゃってくださる。

無自覚で開き直ることは、その罪をさらに深めることになり、人をそして自分をも傷つけている。ご縁をすべて受け入れる。言葉で言うは易し。しかし、すべてを真正面から受け入れずして何も解決せず。逃げて逃げられるものでなし。より苦しみが増すだけ。

ご縁と真向かいになるとき、苦しむとき、泣くとき、笑うとき、すべてのシーンにおいて阿弥陀さんはともに寄り添ってくださいます。

投稿: Kei@住職 | 2012年6月13日 (水) 17時20分

ありがとうございます。
「ご縁をすべて受け入れる。言葉で言うは易し。しかし、すべてを真正面から受け入れずして何も解決せず。逃げて逃げられるものでなし。」
何よりのお言葉ですね。

私はさて、では阿弥陀仏のお慈悲があるのなら、どうして東日本大震災が起こり沢山の「人々」が苦しむはめになったのでしょう?という問いには、今なら答えられると思っています。

阿弥陀様が、生きとし生けるものを救い取るのなら、私たちは、この地球という星が生きている、という事を知っています。太陽も、他の星も無駄に宇宙に浮かんでいるのではない事を知っています。すべての星はまたたいて生きているのですね。ならば、地球がその営みに人間だけを特別視するわけもなく、人だけでなく多くの魚介類や、地中の微生物や、植物たちも根こそぎ津波にさらわれて行ったのです。地震とは地球という生きている星がその営みのなかでごく当たり前に行う生きている証なのです。

ならばその星に生きる生きとし生けるものもまた、その生きている星の営みから逃れることは出来なかった。そこにはどうしてこんな目に会わねばならないのか、というココロが動いてしまう。でも、全てはご縁だったのですね。多くの親子が、兄弟が、友人が犠牲となったのですが、人間以外の生きとし生けるものも犠牲になったことを忘れてはいけない。これは釈尊の教えからしてそうだった。

私たちは阿弥陀仏のお力があればこそ、この試練を乗り越えられるのですね。

投稿: 加藤 隆志 | 2012年6月13日 (水) 20時28分

とても共感しました…
高速ツアーバスの事故は、在日帰化した方が事故を犯しましたね、バス会社は低賃金で生活をしている貧しい人々の集まりです…
会社経営者や所長、教育担当者など妬み嫉みを本来部下である、契約労働者にぶつけます…
それは、嫉み妬みです…
何故か、中途で事情があってしょうがなくバス運転士をしている方がいると、妬み嫉みを持つようです。
彼ら管理側の人びとは、労働者からのピンハネで給料を賄っています。ですから、能力がある人が入社するたび、被害妄想から妬み嫉みを持つようです。
霊性は低くカルマとして修行している意味も理解できていないようです。

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投稿: ガイド | 2012年7月11日 (水) 09時51分

ガイドさん、コメントありがとうございます。

どこの業界でも裏事情があるんですねぇ。でも、やはり消費者側も、安さばかりを求めすぎかと思います。

そのニーズに応える体力ある企業は生き残るし、そうでないところは廃業せざるを得ない。でも、生き残った企業にしてもどこかでムリをしているはずなんです。

安かろう悪かろう、昔からある日本語にはちゃんと教訓が含まれているように思います。

それなりのものには、それなりの価格があってしかるべし。たとえば、毎日お肉を食べなくてもいいんじゃないかと思います。だから昔は、給料日などにスキヤキだって「わーい♪」と喜んだんですよね。

毎日スキヤキだと、その「わーい♪」がなくなり、ささやかな楽しみもなくなった。物質的には豊かであっても、そんな心的には貧しいのが今の社会かなと思います。

投稿: Kei@住職 | 2012年7月11日 (水) 21時10分

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