されたくないこと=したくないこと
梅雨入り、そして台風上陸と荒れ模様の天気に、先週ツーリングに行っておいてよかったなぁとつくづく思います。
ツーリングに誘ってくれた先輩K氏は、ひとつ年上ですがいろいろな経験をされているせいか、もっと年上のように思え、なんだかしゃべっていてもとても心地よい方です。
人と人の会話や関係において、しゃべっていてしんどくなることも多く、住職でありながらも、本来はどちらかというと非社交的なボクには言われたくないとともに、人にたいしても言いたくない言葉があります。
「どうせ…」です。
さまざまな場合で使用される言葉ですが、たとえば「どうせアンタは……」と言われると、さまざまな決めつけをされてるようでとても辛いです。
そして、たとえば息子との会話でも「どうせダメやし」などという言葉を聞くと悲しくなります。
自分が言われて、あるいは聞いて嫌な言葉は、人にたいして使用したくないですよね。
それでいて、無意識に使用してたりして後で気づくと、より嫌な思いがします。
できないというここと、したくないは、その物事の達成度的には同じであっても、そのプロセスが違い、本人にとってはとても辛い思いを抱えている場合が多いんです。
それを、甘えだという決めつけをする強い方ばかりなら世間はこんな楽なことはないんですよ。
当たり前の話ですが、強い方がいれば必ず弱い方がいるんです。
世の中、すべてが強い方なら弱いという概念は存在しないんですから。
どうせ…という決めつけは、それでもがんばってみようと芽を摘んでしまう場合が多いんですよ。
それは人にたいして言う場合も、自分にたいして言う場合もね。
ふぅ。
なんだか、今夜は原因不明のしんどさを感じています。すみません。
| 固定リンク
コメント
毎度おなじみ関西のタメやで〜。こんにちわ\(^o^)/。
どうせという言葉、確かに嫌な気持ちになりますねぇ。ただ、こちらに入信いたしまして(絶対他力の教えに帰依しちゃた)から、どうせ、という人をもう哀れと申しましょうか、そんな感情を持つのみですねぇ。
ひがみ、ねたみ、あきらめなど、全ては、
自力を頼む者の哀れな人の問題解決手法となっているようです。絶対他力思想というやつは、何事も、
仏のお慈悲と知恵により、させて頂く、あるいは頂いた
と考えるために、要するに何事も、
やってみなければ分からん、とりあえずやってみよう
または
やりたくない
のどれかであって、全ては前向きでしかないというわけでありまする。やりたくないというのは、はっきりとした意思として持っている時、これも自分の心がそう感じたのであれば、前向きなんですが、
どうせ俺にしか頼めないからだろうなぁ
みたいな事では、一見良いことをしているように見えても、自己欺瞞と言って、自らに嘘を着いていることになる、やりたくないというココロを大事にしてない、ひいては他人様を思いやる事ができないという事に繋がってしまいますよね。
ありがたく頂戴するか、必要ないからお断りするか
何事も自らのココロを大事に致したいと思います。絶対他力思想では全てが仏の慈悲と智慧のおかげ様なのですから(^O^)v。
投稿: 加藤 隆志 | 2012年6月20日 (水) 23時06分
んむ。このブログでは、ていうか、ボクは基本的に仏教用語を極力使わずに表現する方なので、加藤さんがそれを補ってくれはるから助かる(^▽^)/
投稿: Kei@住職 | 2012年6月22日 (金) 22時38分
そうでしたか( ̄▽ ̄;)。ありがた迷惑ではないかと思いながら、実は自分で自分の信心を確認させていただいているだけに過ぎないのです。浄土真宗的に言えば、みたいな事を書かせて頂いているようなことでして、補うなどおこがましい限り。いずれどなたかが感想をもっと一杯寄せてくださって、賑やかなブログになるといいですよねぇ。
投稿: 加藤 隆志 | 2012年6月23日 (土) 00時46分