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クルマに思うこと

今年11月には13年になる愛車の車検があり、その半年前点検に行ってきました。

点検作業も早く、いつも本当によくしていただいていて、13年も買い替えをしてあげてないのが心苦しい面もありますけど(汗)。

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でも、何も不満がないんですよ。今のこのクルマに。

よく走ります。加速もいいです。コンパクトで扱いやすいです。

それに、エコロジーという観点はよくわかってるつもりですが、周囲を走るクルマの大半がハイブリッドなどになる光景になんだか馴染めない。

もともと画一化されることが嫌いな性格です。

だから制服、軍隊、体育会系といったノリには馴染めない人です。

人それぞれ、十人十色であって、そのうえで人はどう平等足りえるのか? それがボクにとってのテーマです。

クルマは便利なものです。

とくに地方都市にあっては生活必需品です。

だからこそ、いい加減な乗り方はしたくないし、してほしくないです。

500万円のクルマも、100万円のクルマも、原付も、守るべきルールとマナーは同じです。

むしろ、高価なクルマほどその運転テクニックとマナーが求められる代物と思っていますから、お金があってもその腕とマナーのない方は所有を控えていただきたいなと。

公道、すなわち公の道です。クルマもバイクも歩行者も自転車も、等しく走行し歩行する道です。

そして、道交法は弱い立場を優先することが大前提です。

あらゆる立場の人や物が等しく走行&歩行する道だからこそ、マナー&ルールも等しく守ることでスムーズに道は機能するんです。

自分ひとりくらい良いだろう、そう思う人が多ければ多いほど交通事情はおかしくなります。

それは、交通事情だけでなく社会全体の有り様も同じだと思います。

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クルマ・バイク」カテゴリの記事

コメント

 そうなんですよね。結局平等ってのは何か?釈尊は相手にあわせてたとえ話を選び、法話をしたそうですね。これは傍から見ると、相手を低く見ているのではないかと思う。でも釈尊の使命は自分の悟りを説法することだったから、平等に理解してもらうことが重要だったのですね。

 自分だけ良ければ論で、よく儲かっている会社がやり玉に挙がるんですが、会社法人というのは、日本国家では利益を上げて法人税を収めることが義務です。ですから会社法人が慈善事業をして、利益を下げる事は趣旨に反しているため、税務署が文句を言いに来ますし、だからこそ利益が出ない会社はつぶされるのです。

 一方慈善事業は福祉法人のする仕事です。でも福祉法人が儲けようとしたりしていることが問題だったり、先日読んだ正信偈の解説本でも、著者は僧でありながら、最後のほうで、自殺者が沢山増えている昨今、こころも風邪を引くのですから、ココロを病んだら医者にかかって下さいと。しかし、ココロを病む前に仏の智慧を授けるのが貴方の仕事ではないか?と。更に今の社会は昔に比べて劣っていると言うのです。おかしいな~。

 私が気付いたのは、今の社会は何事も「間接的な繋がり」で成り立っているということ。昔が良いと思うのは、「人と人が直接的に繋がって」いたこと。故に諸行無常とあるように、時代のほうが変わったのだからこそ、貴方も変わりなさい。その為に智慧があるのでしょうって、釈尊にも親鸞さんにもそう言われると思いますよ。

 その「間接的な」時代はどうして出来てしまったかというと、結局人間何事も便利にしようとしたからでしょう。便利ならどんなに体が不自由でも、生きていけるし、情報だって賢い人が本を読んで噛み砕いていたのを、今は誰でもネットで見ることができる。自動券売機は切符買うのに並ぶ必要性を無くし、コンビニは最低限今の便利な世の中で必要な物を売っている。

 自家用車も移動手段としてとても便利な代わりに、とても危険なシロモノでもある。原発よりも身近な危険物であるし、放射能よりも、排ガスを1時間も吸えば死にますからねぇ。自家用車が無ければ、タクシー呼ぶか歩くかです。故に自家用車を買うわけです。これで、自分を遠くへ運んでくださる方との繋がりは無くなったわけです。

 このように便利さを追求したから人と人とのつながりが無くなったというのですが、これも釈尊や親鸞さんなら、ワンルームマンションに入ったら、これだけ便利なものを作るために、どれだけの見知らぬ人が手をかけて下さったか考えると、私は間接的にとても沢山の人々とご縁を結んでいるのですね、すばらしいことです。とおっしゃるだろうと思います。お陰で説法に専念できるとおっしゃるだろうと…。

 今は善福寺さんの仰るとおり生き方を選べますが、それには責任が伴うことを知らない人が多いのです。人と人とが直接的に繋がっていた頃は、なぁなぁで済ますことができましたが、今はそうは行かなくなったのです。遍く照らされている智慧を使わない人が多いのです。便利さにかまけて人は慈悲と智慧を失いつつある。便利さに逆に使われてしまっている。便利故に、煩悩に囚われやすくなってしまったのです。こうありたいという自我が阿修羅にように人を変貌させているのですね。

 ダライ・ラマが東北の人々に投げかけた言葉は、
智慧を使って自分たちの街を再建しなさい
でした。勿論悲しみを共有し、慈悲を示されましたが、やはり最後は智慧を使って悲しみを乗り越えなさい、悲しみの煩悩に囚われないようにと言いました。仏教の智慧は学校では教わらないものであり、道徳でも習わない。しかしこうした、自我や煩悩が出やすい時代こそ、仏教の智慧が必要だと私は考えています。色んな真宗の僧職の方と知り合いつつ、今はかつて無いほど自由に生きられる時代でありながら、何故か幸福だと感じられないのはなぜか、それは「間接的なご縁」に気づいていないからだと教えたい。そして仏教者には、世俗の仕組みをお教えして、間接的なご縁の説明をしたいと願っているのです。

 いつも長なってすんませんねぇ( ̄▽ ̄;)。

投稿: 加藤 隆志 | 2012年6月 7日 (木) 21時14分

ご縁のもと、等しくいかされてある存在、それが生き物です。阿弥陀さんの後光は、そんな生命を絶えることなく、照らしつづけていらっしゃる光です。
その光に気づき、生かされてある我が身を思い、おかげさんでと感謝する言葉が南無阿弥陀仏ですね。

世俗の仕組みについては、加藤さんの方がお詳しそうなのでお任せいたします(笑)。

投稿: Kei@住職 | 2012年6月 8日 (金) 16時21分

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