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葬儀の在り方

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毎月お邪魔していたT家のおばぁちゃんが亡くなりました。また、思い出深い方の訃報に、毎月いろいろなお話をさせていただいたことをしみじみ想います。

しかし、ご葬儀の在り方について考えさせられることがとても多い昨今です。

「知人のお通夜に行ったら、そこのお坊さん、なぁーんもお話せんとボソボソとお経だけ上げて帰ってったんや」というような話を聞くことが本当に多いんです。

不特定多数の方がお弔いに訪れるのがお通夜の場です。

そこでお弔いの意味、単に供養だけに終わることなく、生かされてある我が身、必ず死にゆく我が身を故人が仏さんに成って教えてくれているということを一言確認することが大事なはずです。

それがなければ、ただ葬儀場に来てお焼香して帰るだけの行為でしかありません。

葬儀を取り巻く環境は確実に変化してきています。

家族葬という言葉があります。家族や本当に近しい人のみで見送ってほしい、儀礼的な弔問は不要で、わざわざ来てもらうのは悪い、そんな考え方です。

しかし、儀礼的な弔問とそうでない弔問、これは何を基準に判断するのですか?

たとえ何十年も合っていない友人であっても、訃報を耳にすれば弔問に伺いたいと思うは普通の心情だと思いますし、もしその訃報を知らずにいたら「あぁ、行ってあげたかった」と思いませんか?

仮に故人にとって近しいか近しくないかの判断基準があったとしても、それが相手にとっても同じとは限りません。というより、近しかろうが、そうでなかろうが、その人の存在は故人にとって、故人の人生の小さくても一部となっているご縁なのです。

そんな自らの人生を形成してきたご縁を、儀礼的と切り捨ててしまって良いものでしょうか?

もうひとつ、わざわざ来てもらうのは悪いからという人への配慮をされているようですが、上記のように考えればそんな配慮は無用かと思います。

実際にあったケースですが、数年前にとあるご門徒のおばぁちゃんが亡くなったときのことです。

その喪主であった息子さんの意向で家族葬というより密葬に近い形で通夜、葬儀がつとめられ、お骨は49日まで当寺でお預かりしました。

葬儀の次の日のこと、そのおばぁちゃんのご近所に住んでいる数人のご婦人がご来寺されました。

聞けば、お通夜かお葬式に行きたかったけど、一般弔問は受付けていないからと言われ行けなかった。仲良くさせてもらっていたし、できたらお焼香させていただきたいと。

このご婦人方を儀礼的な弔問者だと言われますか?

人が生きるということは、無数のご縁によって生かされ育てていただくということです。

そして、そのことに気づいていただくきっかけを伝えるのがボクたち僧侶の大事な役目だと思います。

合掌

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