広島に原爆が落ちた日
むかしから今日は登校日で、愛息もひさしぶりに制服を来て登校しました。
この8/6になると、やはり広島に原子爆弾が落ちた日を意識しますし、あらためて核と戦争に対してNOという気持ちになりますね。
前にも書きましたが、ボクの小学校中学年時の担任の先生が学級文庫に「はだしのゲン」を入れてくれたことがその背景にあります。
あの戦争を否定したり、負の部分を言ったりすると反日だと主張する方々が多いので困りますが、あの戦争もこの戦争も人にとってすべてが負です。
たとえばサッカーのワールドカップを見ていて、理屈抜きに日本を応援することは強制でもなんでもなくナチュラルな愛国心です。
そんな愛国心は、この国に生まれ育った人なら無条件にあるものであり、強制されるものではありません。
誇りとはなにか? ワールドカップでいえば、たとえ負けても精一杯プレーした後に相手を讃えることができる人としての成熟度があるかどうかにかかっています。
そういったことは、戦争中にもあったそうです。
でも、戦争は人の命を本当にかけています。本当にその国が命をかけるに値する国かどうかを見極める眼が必要です。
解放者として迎え入れた日本軍が、実は欧米より過酷な搾取しかしない国であったと現実が原爆を「当然の報い」という。
これ以上、自国の戦死者を増加させなかったという意味で原爆は可であったというアメリカ。
そのときどきの背景や思いがあって、評価もいろいろです。
でも、あれもこれも戦争はすべて罪悪であるという立脚地を持たなければ戦争も、その戦争にまつわる悲劇もなくなりません。
仮に、あくまでも仮にですが、かつての日本帝国主義が植民地化した国や占領した国にとってプラスとなったことがあったとしても、それを大きくマイナス化するだけの悲劇が各地であったことを考えれば、戦争に良いも悪いもなくただ悪しきものとしか言えません。
空襲や原爆犠牲者はもちろん、旧植民地に取り残された人々、特攻隊、戦後シベリアなどに抑留された人々など戦闘民も非戦闘民もその時代を受け入れざるをえなかった人々すべてが戦争犠牲者です。
そんな時代を受け入れざるをえない状況を生み出し、人の命が物化しないようしっかり世の中の流れを見極め、安易に流されないことが戦後世代に課せられた戦争責任です。
| 固定リンク
「多事想論」カテゴリの記事
- それぞれの姿勢(2019.09.02)
- ルールは同じ(2019.08.23)
- 決めつけ禁物(2019.06.05)
- 冷たい社会(2019.05.31)
- 他人事ではありません(2019.05.24)
コメント