訃報の背景~煩悩と向き合う
思いがけない訃報に接することは、ある意味で日常茶飯事ですが、一軒一軒においてさまざまです。
先月、御遠忌直前にあった訃報は悲痛でした。いわゆる独居老人だったM家のばぁちゃんが、自宅で亡くなっていたと。それも10日間たってのことでした。
Mさんは、当寺の報恩講や永代経会には必ずご参詣されていた馴染み深い方でした。
ずっと電気がついていることから不審に思ったご近所の方が、内灘にいる甥ごさんに連絡し、発見に至ったとのことでした。
だれが悪いわけではありません。
でも、とても辛い報せでした。
こういうケースは、増えることはあっても減ることはない、そんな世情です。近所づきあいは、本当に必要最小限という昨今であり、ボク自身も積極的ではありません。
人と人のご縁を大事にする、そう思っていても煩わしいのが本音です。煩わしいという字は煩悩の煩、すなわち悩みにつながるものです。
しかし、煩わしいからと山の中の一軒家に住む人はほとんどいない。人の中にいると煩わしいが、人がいないと寂しいという相反する心の在りようが人の在りようそのものなのかもしれません。
愚かです人は。
だからこそ、仏法を聴く、生かされてある身に、人に教えられ育てられてある身に気づき、また忘れ慢心し、そしてまた聴くの繰り返しです。
煩悩と向き合い、今日も生かされるなら精一杯生ききりましょう。いつ死を迎えても良いように。
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