他力によって生きる
積雪じたいはたいしたことなかったのですが、バリバリに凍っていました。
登校する愛息に「走ったらコケるから、気ぃつけやぁー」と注意。
しかし、雪を嫌がってみても降るときは降るし、待っていても降らないときは降らないものです。雨も晴天も同じです。
雨が降ろうが、雪が降ろうが、日照りだろうと、人は受け入れるだけです。文句を言ったり、喜んでみたりしながら。
生きることも同じですよね。多種多様なご縁によって生かされながら、それを望むご縁、望まざるご縁と自我によって振り分け、文句を言ったり喜んだりしながら受け入れる日々を積み重ねるわけです。
文句を言う人にも、喜ぶ人にも、平等に雪は降ります。人智を超えたはからいによるご縁、それが他力です。
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コメント
幸せになろう、っとか
悩みをなくそうとか
願い事をかなえよう
っとかは、自力でしょうか、他力でしょうか
難しいことはさておき
事実をありのままに受け入れることで、苦も楽もなく
そのままが見えてくるといったことでしょうか
ようするに、事実はあるのだから
その事実をありのままに随時見て
感じて、気づきながら、生きていけば
なにも思い悩むことなく
やはり、そのままの自分でしょう
また来ます
生きとし生けるものが幸せでありますように
投稿: 才木広之 | 2010年2月21日 (日) 18時33分
才木さん、コメントありがとうございます。
自力というのは、他力があってはじめて行使できるものだと思いますよ。よく言われるたとえですが、西遊記で孫悟空がどれだけ暴れまわってみても、結局はお釈迦さんの手の上だったのと同じなんです。
大地があり、酸素があり、食べ物があり、人が生まれる前から用意されてある環境も他力で、その上でわれわれは自力でもって生活を営んでいるでしょう?
つらい現実や嫌なことが目前にあって、本当に逃げることができますか? 一時的には可能でも、結局はどこかで向き合っていくしかないんです。
それによって苦もなく楽もなく生きることができるかというご質問ですが、それはムリでしょう。苦も楽も感じることない人は、もはや人ではないのではないですか?
すべてが苦であれが楽を、すべてが楽であれば苦を感じることはあり得ません。苦があるから楽を感じ、黒いものがあるから白いという色を認識し、他人がいるから自分を自分として生きることができるのではないですか?
長文になりましたが、またのコメントお待ちしています。ありがとうございました。
投稿: Kei@住職 | 2010年2月22日 (月) 15時43分
宇宙、自然の中でなるべく無駄な行いをせずに
それでも、多大に人間は、宇宙、自然を盗んでいます
その盗んでいるというのは、欲や怒りでの行動は
結局は、盗んでいるとしか思えません
何がいいたいかというと、本来自然の一部分だということです
われわれ人間も、本来は、自然の一部分だということです
ですから、他力、自力という概念は私にはなく
自然の一部分であれば、楽も、苦も思考としては、持ってはいけないということです
感覚としての、楽や、苦は、あると思いますが
楽と、苦といった言い方が適切かどうかは難しいところですが
木は、冬に苦と感じ、春に楽と感じると定義するなら
人間にもそのような、楽と苦はありますが
思考での楽や、苦は、ありのままに見れるこころがあれば
な存在しないといったことであります
生きとし生けるものが幸せでありますように
投稿: 才木広之 | 2010年2月22日 (月) 23時03分
大自然に生かされてあるコトに気づかないからこそ、人は自力の限界に突き当たりもがき苦しむんです。
しかし、それは自力を否定するというコトではなく、他力たる自然やさまざまなご縁のおかげで自力を行使できるありがたさを知るという意味です。
苦も楽もあるからこそ、お釈迦さんは死の間際に「人生はすばらしい」と言われたのではないでしょうか?
無我の境地、すべての人が達成できるわけがない。人は生きるコトに一生懸命だからです。お釈迦さんも親鸞さんもその上で人には自我があり、喜怒哀楽を感じるのも他力たる環境とご縁があってこそだと悟られたんであろうと思います。
投稿: Kei@住職 | 2010年2月24日 (水) 22時00分