自分らしくあるとは
毎月お参りにお邪魔しているとある料理屋さんでのこと。いつも忙しくされている女将さんと今日は珍しくゆっくりお話しました。
お店が1、2階で、3階が住居となっているビルで生活している彼女の楽しみは、週末に市内某所にあるマンションで過ごすことだとか。
「そこの場所も電話番号も身内しか知らないし、そこにいると本当の自分らしくなれるのよねぇ」と笑う。「うらやましい話ですねぇ」と返しながらも少し疑問も感じます。
ほぼ全面的に彼女の気持ちは理解できます。女将である自分を脱いで、素の自分でいられる時間と空間、何よりの贅沢かもしれませんね。
ボクも住職である自分を脱いで、素の自分になりたいという欲求はつねに持っています。一般のサラリーマンの方などは、タイムカードを押して会社を出てしまえば全面的にでなくてもそういう感覚になれるんだろうなぁと思いますし、ボクも勤めていたときにはそう感じていました。
でも、ボクも彼女も住居と職場が同じである以上、そうはいかないんですね。しかし、ということは? ? ? 女将である彼女、住職であるボクは自分らしくない素でない自分なのでしょうか?
とくにボクは仕事であって仕事でなし、寺は職場であって職場でなし、生きることと生活は同じであるはずなのに分けて考え、分けよう分けようとその場から逃げているのかもしれません。
専修学院にて、真宗精神を体得すべくと寮生活をしていたにも関わらずです。住職である自分がしんどい、そう思っている自分も素の自分であるはずなのに。故竹中智秀先生は、だからこそ「いのちの叫び」を聴きなさいとおっしゃられたのでしょう。
この時期、夏の疲れでマイナス思考になることを秋バテというそうですが、ボクもどこかマイナスな心境です。
<今週の予定>
9/15・16>午前~月忌・午後~寺務
9/17>終日~月忌
9/18>午前~月忌・午後~寺務
9/19>終日~月忌
9/20>午前~月忌・11:00~寺にてT家永代祠堂経会・午後~寺務
9/21>休務日
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