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時代に流される

Dsc00966先日「納得不納得」で紹介した方もそうですが、やたらと年配層からの「今の時代、通用しない」とか、「時代は変わってしまった」という言葉を聞きます。

それが、嘆かわしいことだったり、苦笑まじりだったりではなく、さもいいことのように言われる。挙句には「わしでさえ仏壇に手を合わせとらんもん、息子らの時代になったらだれも参らんぞ」とまで誇らしげにおっしゃる。

いったい何を威張っているのか? と首を傾げたくなります。親である「わし」がしなければ子である「息子ら」もしないでしょう、当たり前のことです。子は意識的、無意識を問わず、両親や祖父母の姿をみて学習し踏襲していくものです。

幼き日に親でなくても、じぃちゃんやばぁちゃんが毎朝仏壇に手を合わせていた姿を見ていた子は大人になってもそれを覚えています。だから、ご法事などの席で上記のような親たちよりも、ボクの話に関心を持って話しかけてくれたりする若い方は以外と多いものです。

それはともかく、ここで考えたいのは時代が変わることを迎合する方々の存在です。時代は変わる、これは必然ですが、それが本当に正しい方向への変化なのかという問いが不可欠だと思うんです。

たとえば戦前~戦中~戦後とめまぐるしく時代も価値観も変化しました。なかでも昭和初期~戦中、戦雲うずまき、どんどんものがなくなり、人が死んでいく時代です。聖戦、国益、神国不敗などの言葉でそれを覆い隠され、気がついたときには焼け野原と絶望とともに戦後を迎えました。

その戦前~戦中の過程で、疑問をもったり行動したりした人々は投獄され口を塞がれていきました。反面、時代の変化に無疑問的だったり見て見ぬふりをする人々は否応なく戦争に飲み込まれ飢えに苦しみ、子や父を戦場に取られ、殺され、空襲に逃げ惑い、家を焼かれました。

開拓という名のもとに中国東北部に希望を求めた人々は、北の強国の侵攻でその希望を潰され、追われ、財産どころか家族をも失いました。気がつけば守ってくれると信じた軍隊も、役人もまっさきに逃げ出していました。

安易に時代に流され、それに迎合するとはこういうことです。人が、私が生きるということを見つめ、考え、ご縁をいただき感謝する、お内仏に手を合わすとはそういう時間です。我々のご先祖が750年受け継いできた大事な心を「時代」のせいにして捨てることを必然と考えますか?

蓮如上人は「世間を客とし、仏法を主とせよ」と言われました。時代の変化は世間の常であり、それは入れ替わる客のようなもので、中心には仏法を据えよということです。

<今週の予定>

6/13>11:00~H家にて13回忌法要・午後~寺務

6/14>終日~月忌

6/15>午前~月忌・11:30~寺にてU家3回忌法要・午後~寺務

6/16>午前~月忌・午後~寺務

6/17>終日~月忌

6/18>午前~月忌・午後~寺務

6/19>終日~月忌

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