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あるじぃちゃんの戦争

Azia15先日、とあるご門徒宅の報恩講を勤め、お斎をいただきました。このお宅では毎年恒例で、夕方に勤めた後に酒肴をいただきます。

この家のじぃちゃんは呑んで話をするのが大好きなため、毎年いろんな会話をするのです。じぃちゃんは、朝な夕なに欠かさずお内仏に参り、正信偈を拝読する熱心な真宗門徒であり、ボクのような若造でも「権現さん」と言って敬ってくださるありがたいご門徒です。

呑んでの会話も世界平和を願い、どんどんおかしくなっていく日本を憂い、政治のあり方などにもしっかり筋の通ったご意見を持っているのですが…

戦争は罪悪であるという話には「もっともです!」と言うにも関わらず、そこからご自分の戦争体験に及ぶと「○○○やら、×××××(どちらも戦時敵国民への蔑称)やら、あんな連中はどうしても許せん!」と言い、拉致問題等の国に対しても「あんな国が存在しとってはいかん!」と激高します。

ボクは、それらの国の体制には問題はあるし、戦時中のいろいろにもいろんな見方ができるが、そんな国の国民ひとりひとりが必ずしも悪いわけではない、と言うと「いや! あんな国のやつらもみんな一蓮托生! すべて裁くべきです!」と手に負えなくなってきます。

どんな国に生まれても人は人であり、腹を割って話せばわかる場合もあり、そんな人も大勢いるでしょう? と言っても「あんな国の連中と話す気はございません!」と。

とくに共産国に対する憎悪にも似た嫌悪が強く、旧ソビエトや中国には蛇蝎のごとくの言い分です。それに反論しようものならボクまで「赤」呼ばわりする始末でした。

選ばず・嫌わず・見捨てずという阿弥陀さんに朝晩手を合わせている意味はなんでしょう? ともにこの世に生を受けた人間同士が選び合い、嫌い合い、見捨て合ってる私自身に気づかずにいるなら、阿弥陀さんの御光に照らされてあることを拒否しているのと同じでしょう?

と問うと、じぃちゃんは言葉に詰まりました。そして「わたしは…、親鸞さんのお心に少しでも近づきたいと思ってお参りしているんです」と小さな声で語りました。だったら、どこの国だろうと、肌に色がなんだろうと、人と人のご縁が開かれていくこと、御同朋として交わっていくことを嫌ってはいけないでしょう?

と言うと、「でも!……」とまた激高しかけて、しゅんとしてしまいました。ボクも途中でだいぶ荒い言葉も言ったことを詫び、これからもいっしょにお参りしましょうと言って帰ってきました。

このじぃちゃんは戦時中、主に中国大陸に従軍し、台湾で敗戦を迎えたらしいですが、国のためにと命をかけてその時代を生き抜いてこられたことでしょう。殺さなければ殺される、敵を人だと思っていては殺せない、殺して当たり前の連中だと思うことで闘い、生き抜いてきたのでしょう。

そんな命と青春をかけた時代をどうこう言われたくない、それは正しかったことでなければ自己消化できないのだと思います。

敗戦後、60年以上もたっているのに、ボクがそう思ってみてもじぃちゃんにはまだそれが続いているのです。戦争の犠牲者というと、戦死者、空襲や原爆の被害者などを連想しますが、戦争をし、生きて帰った人もまた犠牲者なんですね。

人の心に深く深く沁み込んで離れず、いつまでも戦争から開放されない、なんて辛いことだろうと痛ましい気持ちです。また、ケンカになるかもしれませんが、このじぃちゃんとはずっと付き合っていきたいです。

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