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人として話し合う

Dsc01501燕が飛来し、いい季節になったなぁと感じます。燕といえばスワローズですが、なんとか勝率5割をキープしつつがんばっていますね。でも、いまだに古田のいない光景に慣れず、なんとなく応援している感じではあります。

長野での聖火リレーは、案の定ゴタゴタがあり、その後のソウルでも同じでした。いろんな主義主張があってしかるべしながら前に書いたとおり、スポーツの祭典に政治色を反映させることには違和感をおぼえます。

そんなそれぞれの主義主張ですが、もう少しお互いの話を聞くという姿勢を取ることはできないものでしょうか? それぞれの国を愛し、信じることは悪いことでありませんが、盲目的すぎませんかね?

それは中国とチベット、北朝鮮等の問題はもちろん、日本国内での主義主張においても感じることです。たとえば、右寄りの方々は自分たちと反する主張を反日と決め付けて攻撃しますが、反としてしまうことはそこに話し合いの余地はないということになります。

靖国という映画の上映をめぐっての報道で、上映中止運動をしている右団体の青年が「見てないけど、あれは反日だから」と答えていることに盲目的な怖さを感じました。ボクは左右どうこうの前に見てみたいです。そして感じたことを話し合いたいと思っています。

人それぞれ信ずるものがあり、信じる自由が憲法で保障されていますし、人として当然の生き方です。しかし、それを押し付け、他人の信じるもの変更を強制することは人としての生きる権利を冒涜することに他なりません。信じるものの差異で対立し反し合っていてはそこに何も建設的なご縁は生じません。ものは違っても同じ信じる心で、人と人は関係を構築していける生き物です。

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