« 公人と私人とマスコミ | トップページ | 猫が好きです♪ »

人の為は偽り

Dsc01346ちょうど今テレビを見ながら書いてますが、歌舞伎役者さんと人気女優さんのご夫婦が正式に離婚されたとか。双方からのファクスによれば「子どものことを第一に考えて」という内容らしいです。

ボクはすぐさま「子どもを第一に考えてたら離婚はせぇへんやろ」とツッこみをいれたくなりました(苦笑)。どちらも人気者であり、今後まだまだご縁もあることでしょうが、芸能人である自分を第一に考えての結論に見えますよね。

まぁ、彼らのことはよいのですが「人の為と書いて偽り」という使い古された言葉がよく似合うご時世だなぁと感じます。人の為と言って、何を偽っているのか? 自分自身の心です。自分の為なのに人の為といっていることが偽りなのです。

非常に厳しいことですが、愛するものを亡くして泣くという行為も結局は「大事な人を亡くして辛いわが身を悲しんでいる」という限界を超えることはできず、供養という行為も亡き人の為になにかをしている自分の心の隙間を埋める行為にしかなっていないんです。誤解しないでいただきたいのは、けしてそういった行為を否定しているわけはないですよ。いたって自然なことなんです。でも、それは自分の為という限界を超えてはいかない行為なんです。

これも有名なたとえ話ですが、あるところに毎月の月命日に亡きご主人のお好きだったコーヒーをお内仏(仏壇)にお供えしているおばあちゃんがいらっしゃいました。そこへお手次寺のお坊さんが月忌参りに来て「ばあちゃん、コーヒー好きなじいちゃんやったんやったら日に3杯くらいは飲むのと違う? 月に一杯のコーヒーでは足りへんやろ」と言っておばあちゃんがびっくりしたというお話。

むろん、このおばあちゃんは純粋におじいちゃんのことを思ってコーヒーをお供えしているし、このおぼうさんはその行為を非難しているという話ではありません。亡き人の為と思っていても、結局は自分の都合による解釈で知らず知らずのうちに「せめて月命日くらい」というツジツマあわせをしているのが人の気持ちの限界だということです。

開運だ、ご加護だ、化けて出るな、と勝手なことを思いながらお内仏やお墓で手を合わせている人などは明らかに自分の為ですが、それは自分の利益や保身のためですし、亡き方はそんな便利屋さんではないことは以前にも書きましたね。

自分が今、生き生かされてあることへの感謝、亡きご先祖たちがいて自分がこの世に生まれ出たという紛れもない事実の自覚から「ありがとう」と言えるかどうか、亡き方が身をもって示している「私も必ず死ぬ身である」という現実(=教え)を自分自身がしっかり引き受けていくことが亡き方との真の関係を開くということです。けして、為といって何かをしてあげるものでも、さらにその見返りを求めるものではありません。

<今週の予定>

3/1>終日~寺務

3/2・3>終日~月忌

3/4>午前~月忌・午後~寺務

3/5>終日~月忌

3/6>午前~月忌・午後~寺務

3/7>終日~月忌

人気ブログランキング【ブログの殿堂】 にほんブログ村 哲学ブログへ にほんブログ村 オヤジ日記ブログへ ブログランキング・にほんブログ村へ にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へ

|

« 公人と私人とマスコミ | トップページ | 猫が好きです♪ »

真宗の生活」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 公人と私人とマスコミ | トップページ | 猫が好きです♪ »