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スタンス・客観と主観

Dsc00947 雨が降りそうで降らず、曇天のうっとうしい日でした。

月忌に訪れたT家にて、ご主人といろいろお話するご縁をいただきました。真宗門徒の家庭に生まれ育ちながら、現在の真宗はいわゆる葬式仏教になっていませんか? との疑問をいただきました。

さらに、お寺は門戸を開いているつもりでも我々世代には敷居が高くなかなか入っていけない、お経などの意味もわからずお仏壇に手を合わすことに抵抗を感じるし、それを子どもたちに「しなさい」とは言えない、時代の流れから考えると数十年後の真宗はどうなってしまうのか等々とのご意見をいただきました。

ボクは、彼のご意見を聞いていて、それぞれに納得する部分を感じつつもそうでない部分、つまり彼は頭の中でいろいろ思考し提言くださっているのですが、あくまでも客観的という位置からの提言ですよね? と思いました。むろん、客観的だからこその視点には、なるほどと感じさせていただきました。

でも、お内仏(仏壇)に手を合わす、お寺に参る、という行動の前に理由づけや無知のままではできないという構えによって、より寺やお内仏からご本人を遠ざけているように思うのです。スタンスを主観的に置くことによって、理屈ではなくはじめてわかるものや見えるものがあるのでは? と。

たとえば、プロ野球をテレビや新聞で見てるだけでは、球場へ足を運び応援することによって得られるライヴ(生、生きる)という感覚はけしてわからないのと同じように。

むろん、いろいろ独学で勉強なさってからという気持ちを否定するものではありません。でも、お寺に来てみませんか? 毎月お邪魔しているお宅の方は、ボクらになんでも話してみませんか? ともに語り、悩み、考えましょう。頭の中でだけで結論づけずに主観として接してみましょう。

蓮如さんの言葉に「仏法を主とし、世間を客とせよ」というのがあります。常に移り変わる世間というモノサシ、それはその時々にお客さんとして迎え、そして迎える主はいつの世にも不変たる仏法、すなわち人が生きる法を据えなさいという真宗門徒としての主観的自覚のうながしです。

今の時代に合う、合わない、そんなモノサシで考えると真宗どころかこの世そのものの行く末が不安でしかないですよ。主たる仏法、ともに体得していくことは、まずそれぞれの家のお内仏に手を合わすことからしか始まらない。家とは、その家の人々が生きる基本だからです。

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