「ご縁」の所在
どちらも詳細は不明ながら、現時点で伝えられているところでは、短絡的かつ発作的な感じですね。
長崎市長をはじめ犠牲になった方々とご遺族には、本当にかけるべき言葉もありません。どうして? そう問わずにはいられません。
長崎の容疑者は暴力団関係者とのことで、どうしても「普通の会話や常識の通用しない相手」というイメージがあります。アメリカの容疑者は韓国出身の留学生で事件後に自殺していてその素性がわかりません。
どちらも常識を超えた犯罪であり、その衝撃は大きい。しかし、ここからが問題です。このふたりを「モノサシが違う」という理由で我々とはかけ離れた人格として扱うことで、我々とは無関係な世界へと葬ってしまいかねない。
このふたりを生み出した土壌たる社会は、我々の住むこの社会です。たまたま彼らがそうなったのか、我々がたまたまそうならなかっただけなのかというだけの話、といえば少々乱暴かもしれません。
しかし、このふたりは間違いなくこの社会から生まれた存在です。我々は、間違いなくその社会の構成員です。ともに考えましょう。この社会の問題性を。こういう人間を生み出す理由の根源を。このふたりをヒトゴトの世界に葬ってしまえば、同じような事件は必ず起きます。
良いことだけが「ご縁」ではありません。というより、目の前に起こったすべての事象が「ご縁」であり、良い悪い、関係あるなしを勝手に決めているのが自我意識です。目の前の「ご縁」と真正面から向き合うこと、そこからしか人や社会の本当の姿は見えてきません、きっと。
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