使っていないモノを変える
国民投票法案とやらが衆議院を通過したらしいですね。言うまでもなく、これは憲法9条を変えるための布石でしょう。
改憲そのものへの議論が本当に尽くされているのかどうか? という疑問がまずあります。どうも、自民党をはじめ為政者には改憲ありきという姿勢が強く感じられます。
改憲の主な理由に、「アメリカに押し付けられたから」という意味不明なものがありますが、内容がよければそれほどの問題ではないはずです。あと、「現状にそぐわないから」という、これまたそぐわない現状を誘導しての理由づけであり意味不明ですね。
では、聞きますが、敗戦後60有余年、ちゃんと憲法を守ってきましたか?と。
敗戦後10年ほどですでに改憲の動きは表面化し、靖国国家護持の動き、そして自衛隊という名の軍隊を保持し、長年の憲法違反を積み上げて憲法を有名無実化し続けてきておいて何を今さら、という感が強いです。
その過程に民意はありますか? あったのですか?
日ごろ、戦争体験者と語るご縁の多いボクは、声なき声をたくさん知っています。おじいちゃん方は死ぬ思いをされた方と、そうでない方では、180度意見が違います。前者は「もうあんな思いはまっぴらだ」と言い、後者は「いやぁ、あの頃の日本(人)はすばらしかった」と。
おばあちゃん方は、口をそろえて言います。「戦争なんて、二度とごめんだよ」と。
あの頃の日本(人)はすばらしかった。そう思う人々の集まりの代表格が戦死者の遺族会や戦友会等でしょう。そして、個人個人の思いを超えてそういった組織は為政者たちにとって大事な支持基盤となっています。
東京裁判は、形としては勝者の一方的な裁きです。では、東京裁判がなかったら、ドイツのように日本人は自らの手であの戦争を総括できたのか? という疑問があります。多くの国民は、戦争の実態を東京裁判で初めて知ったのです。
戦争に参加した方々は、自身の命と青春をかけた時代を否定されたくないし、したくないという思いがあります。そのお気持ちはわかるとは言いませんが、人を動かす根幹は「情」であることは理解できます。
人と人が殺しあう、それが戦争。その戦争を「しません」と言い切った憲法を、なぜ頼もしいと思えないのでしょう? まっさきに戦死し、空爆等で犠牲者になる一般市民にとってこれほどありがた憲法はないのですよ。
相手が攻めてきたら云々と言いますが、そうしない、ならない政治、外交をするのが為政者の役目です。国民が塗炭の苦しみを受けないために働くのが政治家です。我々はそのために税金を払っています。その努力を怠って、揚げ足取りに終始している国会中継は茶番にしか見えません。
とある元軍人の90歳のおじいちゃんは言いました。「政治家はボランティアでなきゃならん。先生なんぞと呼ぶからおかしくなる。思い上がってはいかん」と。
そして、本当に怖いのは無関心な国民ですよ。ひとりの国民として、ひとりの有権者として、そしてひとりの人としての自覚のみにおいて選挙で一票を投じましょう。
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