仏事をつとめる心
たとえば、テレビが壊れたから電気屋さんに「ちょっと来て」という感じでの仏事の依頼。
以前にも紹介した代表的な例。
某氏「法事したいんやけど」
ボク「いつでしょうか?」
某氏「来週の土曜日の11時や」
ボク「(絶句しつつ)・・・、来週の土曜日ですか? もうすでに2軒のご法事が入ってて厳しいですね」
某氏「そら困る。もう親戚にも料理屋にも言うてあるし」
多くのご門徒は、少なくとも一ヶ月前にはご依頼されます。しかし、それ以前に、この某氏にとっては、ご法事をつとめるに際しての優先順位が「親戚~料理屋~僧侶」の順番なんですね。
最近増えたのが、ご法事や報恩講をつとめることに対して、こちら(お寺)が頼んでさせてもらってるという勘違いです。ご法事も報恩講も、その家の仏事です。たしかに、こちらは年明けに「お宅は今年、○○さんの○回忌の年です」という案内をしますし、秋(だけではないですが)になれば「○月○日に報恩講をつとめさせていただきます」というご案内を出します。
それは、忘れてはならない「あなたの家の仏事」だからご案内するのであって、お寺が「しなさい」、あるいは「しなければならない」と頼んでいるものではありません。
亡き方をご縁にして、阿弥陀さんの御光に出会う。それが真宗での仏事です。私が、私の中で生きてくれている、その上でいつ果てるかわからない命の存在の気づき、今を精一杯生ききることを願われてある身を自覚する、それが仏事をつとめる大きな意味です。
亡き方があった、とあるお宅からの電話では、「うちの爺さんが死んでん。いつ来てくれる?」とヒトゴトにような電話もあります。まるで「テレビが壊れてん。いつ来てくれる?」と変わらないような口調で。
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コメント
こりゃ、“絶句”ですな。
最近、人との接し方が、
人間的でなくなっているような、
気がしますね。
(「希薄」という表現では適当でない気がします。)
心での交流が無ければ、
人は人とのつながり持てませんし、
社会は成立しないのになあ・・・、
と思ってしまいました。
投稿: 喜右衛門 | 2006年11月16日 (木) 00時02分
まぁ、ケイタイやPCでのやり取りが盛んになればなるほど、人同士のつきあいは下手になっていくのかもしれませんね。
ボクシングのカメダ兄弟のように、人に対するリスペクト(敬意)なしの態度がまかり通る時代です。嘆いていてもしょうがないので、自分はそうならないよう気を配っていたいと思います。
投稿: Kei@住職 | 2006年11月16日 (木) 17時29分
今晩は~ご住職様。。
法事の優先順位・・・
こういう方も おられるのですね~。
驚きです。
何か 信じられないお話で御座います。
我が家でしたら まずご住職様のご都合を聞いてからですよね。これは常識でしたね。。
投稿: neorin | 2006年11月16日 (木) 20時23分
はぁい♪neorinさん。
この方、これでも、もう60代のええオヤジさんなんですよ。年齢って、伊達にでも取れるんだなぁ、とつくづく思うお方です(苦笑)。
そうです。まずお寺の都合を聞いていただきたいですね。まぁ、僧侶なしでもその日にどーしても勤めるというなら別ですけどね(苦笑)。
投稿: Kei@住職 | 2006年11月16日 (木) 21時18分