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院長先生

Photo ボクが卒業した大谷専修学院の院長、竹中智秀先生がご往生なさいました。去る10/8の午前3時すぎ、急性心筋梗塞、享年74歳だったとのことです。

先生は、細身で、いつも笑顔で、白髪をきれいになびかせたロマンスグレーでした。そのお声も柔らかで、独特のイントネーションというか訛りがあり、「ご本尊」を「ごほんどん」と発音されていたことが思い出されます。

この大谷専修学院というのは、大学ではなく一種の専門学校で全寮制です。ボクのように宗門に無関係の大学を出た者や高卒の寺院子弟、あらゆる理由で寺に入る者が宗派の教師資格を取得するために一年間在学する所です。

院長先生は、寮で暮らしてはおられませんでしたが、毎日学院に来ておられ、週に一回の院長講義をされていました。その講義は、全文筆記だったので学生はみんな耳をすまして聞き、ノートを取ったものです。

「親鸞聖人」→「SS」、「蓮如上人」→「RS」等の略が書かれたノートは、今みても暗号帳のようです(苦笑)。

阿弥陀如来とは、何人も、何ごとも、「選ばず・嫌わず・見捨てず」なのですよ。と最初の講義で教えられ、「あなたは何者であるのか? をこの一年で見つけてください」といわれたことを思い出します。

学院を出て13年、ボクは何者なのか? 今だにその答えが見つかっていないように思います。3年前に学院の同期生の結婚式でお会いしたのが最後でした。もっと、先生に会いにいけばよかったと思います。いずれ学院葬が行われるらしいので、そのときにはなんとか時間を作って、あの学院の空気を吸いに帰ろうと思います。合掌。

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日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

ご住職様、こんばんは☆

>「あなたは何物であるのか?」

自分は何者なのか、私にもよく解りませんわ。。
「私は私」なんて当たり前過ぎますし。。。

結局、死ぬまで、最後まで判らない気も致しますわ。

しかし74歳とは、まだお若い?ですね。
ちなみに、母が72歳で非常に元気ですので。
でも、ちょっとドキリ!としましたわ。

投稿: マリア | 2006年10月10日 (火) 23時07分

こんばんは!マリアさん♪
何者であるか? 今を生かされてある者であり、そのときどきに学生であり、僧侶であり、夫であり、主婦であり等々、今いる場所に根をはり、その自覚を持ちなさい、ということではないでしょうか?

年齢は、それぞれ、平均寿命がいくつであっても、みんながその年齢まで生きるわけではないですからね。一寸先は闇、そこにわが身の死というご縁が待っているかもしれないのは、ボクもマリアさんもおんなじなんですね。だから、今を精一杯生きる者であるべきなのでしょうね。

投稿: Kei@住職 | 2006年10月11日 (水) 21時13分

ご住職様☆ 
おはようございます☆

そうですね。。全く仰られる通りで、今をどう生きるか『今』こそ大事で、
いたずらに『過去』や『未来』に囚われず、今出来る限りの事をし、
精一杯、燃焼し尽す!のが「生きる」ことの本来の意味かもしれない、
とご住職様のお言葉を拝見して、思いも新たに致しましたわ☆

これからも、どうぞ宜しくお願い致します。
そして、有難うございました。

投稿: マリア | 2006年10月12日 (木) 05時49分

2011年には、親鸞聖人の七百五十回御遠忌があるのですが、そのテーマが「今 いのちがあなたを生きている」というものなんですね。

今、生きていることが、あまりにも当たり前すぎていて、そこに感謝もなにもなく、その当たり前の上にあれがほしい、ああなりたい、こうしたい、ばかりを欲している現代人へのメッセージなのでしょうね。

投稿: Kei@住職 | 2006年10月12日 (木) 21時41分

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