餓鬼を育てる現代人
飲酒運転による痛ましい犠牲者が続出しています。飲んだら乗るな、という以前にクルマは凶器になり得るものだという自覚が望まれます。クルマに乗るということは、それだけ責任重大だと思いますし、歩行者優先という原則を、ボクを含めたドライバーが今一度肝に銘じるべきかと思います。
楽を覚えると、どこまでも楽を求める心、欲望にかられるとどこまでも欲する心、そんな心を人は持っています。さまざまな経典に餓鬼という存在が出てきますが、諸説の中に「食べても食べても満足せず空腹を訴える」ともあり、まさに人の心の中にもそんな存在がいるのだと思います。
かつて、マルチ商法にハマっていた友人がいました。彼は「6畳一間のアパートに住み、チャリンコ(自転車)に乗ってた俺が、これ(マルチ商法)始めて一年でスカイラインに乗って家賃10数万のマンションに住んでんねん。すごいやろ? オマエもいっしょにやろうや」とボクを誘ってきました。
一瞬「ええなぁ」とは思ったものの(苦笑)、ちょっと考えて彼に「ほんで、オマエはそれで今満足してんねやな?」と聞くと、「もっとや、もっと上行くで」と言います。さらに「ほんなら、ベンツ乗ってマンション買うたら満足すんのん?」と聞くと、「いや、世界中に別荘持って、自家用機で飛び回るんや」と言います。
さて、仮にそうなったとして彼の心は満足するのでしょうか? たぶんそうなって、しばらくはその余韻にひたるかもしれませんが、きっとさらに上を望むのでしょう。その後、彼とは会っていませんのでどうなったかは知りませんが、心の中にいる餓鬼に操られた現代人の哀れさしか感じません。
今ある処に満足や感謝を見出せない人は、何処へ行っても満足しないと言います。世界には紛争が無くならず、本当に餓死する人が存在する中で、それがない日本にいて、これ以上なにを求めますか? セレブとやらになったら満足しますか?
「世界全体が幸せにならなければ、私ひとりの幸せはあり得ない」、以前にも紹介した宮沢賢治さんのお言葉です。心にある餓鬼に言い聞かせていきたいものです。
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コメント
( ^-^)ノ(* ^-^)ノこんばんわぁ♪
ご住職。。
今日は『餓鬼』と言うお言葉につられて やってまいりました。
人の心の中にある餓鬼の心・・・。
思えば 多少なりとも 私の心の中にも潜む餓鬼の心・・・
そうですね~
言い聞かせて生きれば宜しいのですね。。
有難う~御座います。
投稿: neorin | 2006年9月13日 (水) 18時11分
“餓鬼”とは書かれておられますが、
「欲望」のことですね?
人とはとどまることの知らない欲望を持つものですね。
その「欲望」も含めて、我々凡夫の現実でしょう。
愚かな全てを認め、
「ああ、全く人というのは、自分ではいかんともしがたい存在であるなあ。それにも関わらず、生かせていただき、今日も早く気づけよ、と仏様は“命”を下さったのだなあ。」と、
心の底から感謝できるようになりたいものです。(頭では理解できるのですが・・・。)
投稿: 喜右衛門 | 2006年9月13日 (水) 21時15分
餓鬼と畜生(情をもたない存在)が構成する世界を地獄といいます。
もっともっとと際限なき欲望にみを任せ、他人はもとより親子兄弟にさえ情容赦ない事件が後を絶たない現世こそが地獄化しつつあるのかもしれませんね。
投稿: Kei@住職 | 2006年9月13日 (水) 21時25分
少々、考えに行き違いがあるようですね。
私は、行き過ぎた欲望は身を滅ぼす元にはなると思いますが、
「欲望も含めて我である」と言いたいのです。
(その友の方は、将来こうなりたいという夢を語っただけかもしれませんよ。夢は人には生きるための大事な原動力です。そこまで否定なさっているように私には感じますが、如何ですか?)
当然、お釈迦様は“中庸”を第一にお説きになられましたが、
向上心という欲望が無ければ、人は成長できないのではないでしょうか?
(だから、何もかも欲望をなくすことを私はすすめません。話はそれますが、宮澤さんは日蓮宗ですから、考えが違うように思いますよ。)
そのような愚かな凡夫にさえも分け隔てなく無量の光を降り注がれる御存在がいらっしゃることに、早く気づけ!、との呼びかけ。
これが、御念仏でしょう。
自分で悟ることは難しいのだから、
僧侶であるあなた方が
お話で教え諭すのでは?
我々は、自力ではなんともしがたいわけですから・・・。
よろしくお願いいたします。少しでも周りの方から、ご縁のある方から(その友達にも)、教えてあげてくださいな。
宗教者は傍観者であってはならないのですから。
投稿: 喜右衛門 | 2006年9月13日 (水) 23時39分
喜右衛門さん、こんばんは。
欲望や夢を否定しているわけではなく、どこまでいっても満足しないということなんです。仮に欲望や夢を向上心と定義したとして、もっと便利に、もっと豊かにと発展してきた現代社会でなぜ毎日毎日異常な事件や争いが絶えないのでしょう?
おっしゃるとおり、そんな一面も含めて人であり、我である。では、そんな罪深い我をどう慙愧(罰するということではありません)し、それでも命ある限り日常を生きていかなければならないこの身を全部引き受けていけますか? そういうもんだ、といってしまえばそれまで。でも、親鸞さんという人はその悩みを一生抱えて日常を生きていかれた結果、南無阿弥陀仏(帰命無量寿如来=すべては阿弥陀さんの計らいに委ねられ、それを受け入れ命あるすべてのものとともに与えられた生を精一杯生き切ることを自覚する)を凡夫たる身を罪深い悪人の自覚と定義されたのではないでしょうか。
宮澤さんのこの言葉は、超宗派、超宗教的なものだと思いますよ。
投稿: Kei@住職 | 2006年9月14日 (木) 21時28分