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2006年9月

ありがとう、もったいない

Dsc00604_1 今日で4日間に渡った内灘地区のご門徒宅報恩講を終えました。

総代Fさんはじめ、世話方の皆さんありがとうございました!

そして一緒に回ってくれた源正寺住職のコウちゃん(たまにはコメントちょうだい/笑)、お疲れさまでした! ありがとう!

さわやかな秋のハマ風が心地よく、一年に一度のご縁を気持ちよくいただいてきました。しかし、今年は全部で47軒で、年々減少しているのが実情です。

かつて、ボクがはじめて内灘地区報恩講を勤めた15、6年前、このときには、この倍近くあったように思います。中でも一番軒数の多い4丁目は、そのときに一日で36軒を10時間ほどかけて回り、足が棒のようになり言葉もなかったことを思い出します。

しかし、その後この村にあり当寺のご門徒だった旅館で打ち上げをしたことがとても楽しかったことも覚えています。疲れ果て、しんどかっただけに終わったあとのビールのうまかったこともね(笑)。

そのころ、お世話くださったお年寄り方の多くはすでに亡くなり、代替わりしてはご縁を絶っていかれたお宅も多いです。その理由には、当寺のご門徒であっても、もともと当寺の道場だった源正寺さんに日々の月忌参り等をお任せしていることから、代替わりしたときに、若い方はお寺がふたつも必要ない、近い方だけでいいのでは、と思うらしいということもあるらしいのです。

これは、もちろん源正寺さんに責任があるわけではなく、昨今の家庭事情も大きいのだろうと思います。ひとつ屋根の下に住んでいても、お年寄りと息子さん夫婦、お孫さんがいっしょに食事をしないお宅が非常に多いのです。ということは、その日の出来事からその家に代々伝わってきた風習などを伝える会話の機会が失われているということなのです。

当寺と内灘地区のご縁は、数年単位ではなく百年単位です。ということは、その家の歴史の中の節目節目、つまり通夜・葬儀・ご法事・報恩講等と密接に関わってきたということです。

少なくなりましたが、今でもボクらが報恩講に行くと、涙を流しながらに「ありがとう、ありがとう、もったいない、もったいない」と迎えてくださる内灘のおばあちゃんがいらっしゃいます。こんなおばあちゃんにお会いすると、足が棒でもしっかり勤めようと気持ちが引き締まったりします。このおばあちゃんは、今年も報恩講に会えた今、この瞬間のご縁に感謝していらっしゃる、なんの修行も勉強もしたことのないおばあちゃんですが、しっかり「今、この瞬間瞬間のご縁を大事に引き受け生き切る」という阿弥陀さんの願い、つまり本願を身をもって実践されているのですね。

親鸞さんがおっしゃられた、文字をも知らぬ者ほど、仏法を知っている、という意味を、このおばあちゃんはボクたちに教えてくださってあるのだなぁと、こちらこそ、ありがとう、もったいない、そんな思いがします。

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こんな性格ですが・・・

Dsc00614 今日は、内灘地区の報恩講3日目で17軒を勤めバテバテですわ~(苦笑)! 

しかし! 明後日の役員会の資料づくり、寺報121号の編集、ともにほとんど手つかずですぅ~(泣)!

昔から、テストの前日にならないと勉強しないタイプです、はい。来年には40にもなろうというのに、今だにこの性格に変化はございません(苦笑)。

今夜は、昨日北海道から送られた利尻昆布(Sさん、ありがとうございます!)で出汁をとった、タラとキノコ類の入った湯豆腐で一杯飲んでしまいましたので、寝ます! 明日はがんばりますのでお許しあれ。

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三本足、正面はどこ?

Dsc00609 「仏さま、親鸞さま、みなさん、お休みなさい!」

我が家では、夕食後8時ごろに皆でお内仏(仏壇)の前でそう唱えます。これは、この春まで愛息が通っていた金沢別院の幼稚園での挨拶に由来し始めたことなのです。

園児たちは、毎朝「仏さま、親鸞さま、みなさん、おはようございます!」と元気に唱えて、一日の園生活を始め、帰りにも「仏さま、親鸞さま、みなさん、さようなら!」と唱えて帰宅していました。

別院の幼稚園といっても、大半は一般家庭の子どもで、寺院子弟は少数派です。ほとんど毎日、ボクが送り迎えをしていました。半年前のことながら、すでになつかしく感じます(苦笑)。

Dsc00607 話は変わって、この写真の香炉のような三本足のものの正面はどこでしょうか? ご存知ですか?

さまざまなお宅にお邪魔してて多く目にするのは、二本足の方を正面にしている場合です。これは「鼎=かなえ」といって、写真のように一本足を正面にします。つまり、真下からみると三角形の頂点が正面、底辺が後ろということです。

鼎という言葉、たとえば「鼎談=三者会談」という使い方をしますし、名作「三国志」で諸葛亮が劉備に進めた天下三分の計が成立した時代を「三国鼎立」とも言いますね。つまり、三つの足によって立つものを「鼎」というわけです。

漢字は、一文字でさまざまな意味を表します。秋の夜長、漢和辞典を読んでみると、「おぉ!」という発見がありますよ。暇つぶしにはもってこいです(笑)。

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山内と書いて何と読む?

仏教用語は、一般とは違う読み方が多いです。たとえば「組」と書いて「そ」と読み、寺院の集まりの最小単位を表します。その長を「組長」といい、「そちょう」と読み、組長の集まりを「そちょう会」といいますので、くれぐれも「くみちょう会」と読んで怖がらないでくださいね(笑)。

では、「山内」と書いて何と読むでしょう? 「さんない」と読みます。というのは、寺院には○○寺という寺号のほかに「山号=さんごう」というものがあり、当寺ですと「大慈山=だいじざん」といいます。そして、その寺院とその支坊、道場、出張所等と寺族(住職とその家族で僧籍を持つ者)、役僧(寺に勤める僧侶)さんたちを含めて「山内」といいます。

現在では、そんな支坊等は少なくなり、かつて支坊等だったところも寺号を得て独立寺院化していますが、今でもそういう寺院群を「山内」と慣習として呼びます。ちなみに当寺の山内には、当寺以外に3か寺と寺族以外に2人が所属しています。

Dsc00603 そんな山内のひとつに、内灘の源正寺さんです。もともと当寺の道場だったことから、近在では通称「下(しも)道場」と呼ばれています。おたがいの年間行事には行き来をし、毎年今ごろには4日間にわたって内灘地区の在家報恩講を一緒に回ります。

Dsc00601 現在の住職は、故前住職の甥にあたり、ボクより少し年下の通称コウちゃん、まじめな好青年♪ 「1年たつの早いねぇ」と言いながら河北潟からの浜風に吹かれながらご門徒宅を回りました。昨日のH寺さんの報恩講、そしてこの内灘の在家報恩講、秋の到来を感じるとともに、「さぁ、忙しくなるで~」と気合が入ります。

Dsc00604 人の集まりたる「お講」、それは地区によってさまざまなご縁と形で形成されていますが、真宗門徒にとってその最大かつ重要な「講」が報恩講です。地域によって「ほぉんこさん」とか、「おとりこし」等とも呼ばれ親しまれてきました。かつては家族総出でお内仏(お仏壇)を清掃し、仏具をおみがきし、報恩講用に松花をあしらった仏花、お華束(おけそく=おもち)をお供えし、報恩講をお迎えしました。それは、代々真宗門徒としてお念仏を相続してきたその家の歴史的行事ともいえますね。

内灘のご門徒さん方、あと3日間よろしくお願いいたします。

★今週の住職

<9/25>午前~月忌・午後内灘報恩講2日目

<9/26・27>月忌

<9/28・29>終日~内灘報恩講3日目&4日目

<9/30>午前~月忌・11:00M家17回忌&1周忌・14:00H家墓納骨・15:00役員会

<10/1>休務日(在寺未定)

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シーズン到来~!

Dsc00351_1 明日はH寺さんの報恩講への参勤です。毎年ここから報恩講の季節が始まり、12月中旬までに10か寺ほどの参勤と、250軒ほどのご門徒宅報恩講を勤めます。

秋は一年で一番好きな季節ですが、これからの2か月半を思うとのんきなことは言ってられないのですよ。

声かれます。

膝痛めます。

平常の月忌参りやご法事に報恩講を入れるスケジュールを組むのに頭使って頭痛がします。

そこにお葬式が入り、1からスケジュールを組みなおすと知恵熱が出ます(笑)。

★報恩講とは、親鸞聖人のご命日(11/28)をご縁に各寺院・ご家庭で営まれる真宗では年間最大行事です。ちなみに当寺の報恩講は、例年どおり10/29と10/30です(詳細は本館「善福寺公式サイト」へどうぞ!)。ぜひご参詣ください。

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遠くて近い? 近くて遠い?

Ipodnano01_20060912 今日は、先日四十九日を終えた砺波市のK家のご夫妻が納骨にご来寺されました。いろんなお話をさせていただき、これをご縁にまたのご来寺をお願いします。

これはKさんだけでなく、金沢市内でもちょっと郊外の方々がおっしゃることなのですが、「もっと近ければ」と。しかし、ヒト昔前には電車(汽車)に乗って、バスに乗って遠方の方はたくさん来られました。

今は、クルマならその半分以下の時間で来られるのですが、遠方の方のご来寺は減少しています。お年寄りは「若いもんに乗せてもらわにゃ何処にも行かれない」とおっしゃいます。その「若いもん」は、平日は仕事、休日は遊びでそんなヒマはない、とのこと。

これは、ヒトエにお寺参りに魅力がないというボクらの不徳のいたすところでもありますが、楽を覚えると以前にはしていたことが苦痛になってくる、つまりクルマでの外出から、電車やバスでの外出への逆行ができなくなってくるという一面もあります。

当寺では、各行事のご参詣の減少はそれほど顕著ではありません。むしろ新しい顔が見えることも多いのですが、それまで主流だった郊外の農村からの顔から街中からの顔へと変化しつつあります。お墓参りをされる方々にもその傾向は見られます。

それらは良い悪いではなく、先祖代々から今へと続いたご縁への確認と感謝よりも、目先の快楽に身を任してしまう人の安易さと弱さをあらわしているのかもしれません。

仏教徒の多くの人が今ある証、すなわちご先祖からの命のつながり、そのご縁を結んできたのは、みなさんのお手次ぎ寺です。住職とは、もともと留守職(るすしき)といい、そんなご門徒がご参詣されるために日々お寺の留守を預かっている身なのです。

若いとなかなかそれも理解しづらいものかもしれません。でも年をとってくるとそんな命のつながりの確認を欲してきます。たまには、おじいちゃん、おばあちゃんに「お寺へ行こうか?」と声をかけてみてはいかがでしょうか?

「年寄り嫌うな、行く道だもの 若もの嫌うな、来た道だもの」(永六輔さん)。

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吉牛復活!

Campaign_il_0918_02 本日、全国の吉野家さんで牛丼が一時的に復活しました! いやぁ、興味のない方にはまったくないのでしょうが、ボクら世代にとっては「青春の味」なのです(苦笑)。

ボクが行ったのは、すでにお昼も過ぎた午後2時前でした。が、しかし店の前にも行列が・・・。こうなるとなおさら食べたくなるもので、比較的空いていそうな別の店舗へ行ったところ、駐車場は満車だったものの行列はなかったのでその店舗のすぐ近くのスーパーに駐車して(ごめんなさい)歩いて店内へ。

異様な熱気の店内、そこには老若男女がどんぶり片手に牛丼をかき込む姿、持ち帰りカウンターには「早く食べたい」という表情の主婦らしい列が並んでいました。店員さんも普段の3倍ほどの人数で対処に大忙しです。

カウンターに座り、大盛りと味噌汁を注文し待つこと数分、2年7か月ぶりの吉牛(よしぎゅう=吉野家牛丼の愛称)を味わって、というよりやはりかき込んでいました。やっぱり、うまいっ!! 他の牛丼屋さんのとは一線を画す味です(笑)。

思えば学生時代、サークルやアルバイトの帰り道に仲間たちとワイワイ言いながらかき込んだものです。本格的な復活は12月ごろかららしいですが、安全性だけは気を配ってほしいものではあります。

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今週の住職

Photo_3 大好きだった「どっちの料理ショー」が終わってしまいました。一時、一般視聴者の出演者を募集しているときには応募したこともあったりしました(笑)。

というわけで、一週間の早いこと早いこと、今週のボクの予定をお知らせします。

<9/18>月忌・11:00~寺でS家の三回忌法要・13:00/S家葬儀

<9/19>月忌

<9/20>9:30~寺でK家納骨法要・以降月忌・午後在寺

<9/21>休務日(在寺未定)

<9/22>月忌

<9/23>午前~月忌・13:30~H寺報恩講参勤

<9/24>午前~月忌・13:00~内灘地区報恩講初日

いよいよ報恩講シーズンのはじまりです。12月半ばまで断続的に続きます。

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トコロ変われば

Dash 朝晩けっこう寒いですねぇ。でも、まだ9月の半ば、暑さ寒さも彼岸まで、という言葉も死語なんでしょうかね(苦笑)?

今日はご法事の後に、砺波市の庄川荘さんへつれていっていただいたのですが、おいしい子持ち鮎をいただきました。その席で、同席していた方から、ウチのお寺さんとお経が違うように聞こえたと言われました。

よく聞いてみると、そのお寺さんはいつでも「仏説阿弥陀経」を拝読され、ボクらが今日拝読したのは「仏説観無量寿経」だったのです。これは、良い悪いではなく、地域差があるのは確かなんですね。そして、お供えするものや、お焼香の仕方等も違いがあるものなんです。

たとえば、お通夜の次第などは、金沢では、阿弥陀経~法話~正信偈(三首引)ですが、能登では正信偈(六首引)~法話、富山では阿弥陀経~法話という具合なのですね。これは、言ってしまえば方言みたいなものかもしれません。正式にはこう、だからそれに合わせなさい、といってもそれは標準語はこうだから方言はやめなさいというようなものです。むろん、これだけは守るべきという部分は必要です。

乱暴なたとえかもしれませんが、それだけ生活に根ざしているという意味では同じなのです。今日の砺波あたりではお餅のことを「おけそく」といいます。これは「お華束」と書きますが、真宗での正式なお供えのことです。砺波では、お供えにするしないに関わらず、お餅のことを「おけそく」と呼ぶ、それだけ生活の中に仏事が根ざしているということなんですね。

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多事想論1

2006091304706720jijpsociview001 自民党総裁選挙が近く、その選挙で選出される人が首相となるわけですが、その最右翼たるAさんが「憲法改正」を声高に公約しました。率直に、恐ろしい時代になってきたなぁと感じ、またそんなこの国の指導者決定に国民はまったく関われないことに疑問を感じます。

この秋に公開されるCイーストウッド監督作品「父親たちの星条旗」の原作本「硫黄島の星条旗」(文春文庫刊)を今読んでいますが、その冒頭に

「国と国も間のことは、母親たちが協議したほうがいい。戦う国々の母親たちは、この殺戮はもうやめよう、こんなことはもうやめよう、という点で同意するだろう」

との言葉が書かれていて、大きくうなづきました。首相候補Aさんのモットーは「戦う政治家」とか。イコール好戦的人物とは言わないが、平和や協調を掲げていないことには変わりはないですね。

話は変わりますが、先日のお参りでその家のご親戚(ウチのご門徒ではないですが)の話を聞いて愕然としました。80歳近い一人暮らしの母親が目を患い一人暮らしが困難になってきたので、長男(50代半ば)が同居を考え始めたらしいのです。ところが、その妻(50すぎ)が、義母の介護をするくらいなら離婚したいと言い出したというのです。

最初はせいぜい30歳~40歳前後の方かと思えば、50歳もすぎた成熟した大人の発言と聞いて二の句が告げませんでした。むろん、妻が義母や義父の介護をするのは当然などと言うつもりは毛頭ないですし、これはご夫婦、お孫さんを含めたその家族全員の問題であり、その方の私には関係ないという姿勢はいかがなものでしょうか。

その女性には、自分もいずれそういう身になるかもいしれない、そうなったときに子どもたちに「お母さんは、おばあちゃんの面倒みなかったでしょ?」と言われたらどうしますか? と聞いてみたいです。面倒や迷惑をかけ合うのが家族ではないですか? たとえば、オムツを替えてくれた親がオムツが必要になったら、子どもが替えてあげるのが筋というもの。妻はもともと他人かもしれない、でも家族としてのご縁を条件付で引き受けるものでしょうか? 婚姻は企業同士の契約ではなく、そこには情というものがあるはずです。

ちなみにウチの父親(前住職)は、「長生きすれば、迷惑かけるから頼むぞ」と言い切っています(苦笑)。でも、繰り返しますが、迷惑と面倒をかけ合うのが家族というものではないでしょうか?

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餓鬼を育てる現代人

飲酒運転による痛ましい犠牲者が続出しています。飲んだら乗るな、という以前にクルマは凶器になり得るものだという自覚が望まれます。クルマに乗るということは、それだけ責任重大だと思いますし、歩行者優先という原則を、ボクを含めたドライバーが今一度肝に銘じるべきかと思います。

Dsc00367 楽を覚えると、どこまでも楽を求める心、欲望にかられるとどこまでも欲する心、そんな心を人は持っています。さまざまな経典に餓鬼という存在が出てきますが、諸説の中に「食べても食べても満足せず空腹を訴える」ともあり、まさに人の心の中にもそんな存在がいるのだと思います。

かつて、マルチ商法にハマっていた友人がいました。彼は「6畳一間のアパートに住み、チャリンコ(自転車)に乗ってた俺が、これ(マルチ商法)始めて一年でスカイラインに乗って家賃10数万のマンションに住んでんねん。すごいやろ? オマエもいっしょにやろうや」とボクを誘ってきました。

一瞬「ええなぁ」とは思ったものの(苦笑)、ちょっと考えて彼に「ほんで、オマエはそれで今満足してんねやな?」と聞くと、「もっとや、もっと上行くで」と言います。さらに「ほんなら、ベンツ乗ってマンション買うたら満足すんのん?」と聞くと、「いや、世界中に別荘持って、自家用機で飛び回るんや」と言います。

さて、仮にそうなったとして彼の心は満足するのでしょうか? たぶんそうなって、しばらくはその余韻にひたるかもしれませんが、きっとさらに上を望むのでしょう。その後、彼とは会っていませんのでどうなったかは知りませんが、心の中にいる餓鬼に操られた現代人の哀れさしか感じません。

今ある処に満足や感謝を見出せない人は、何処へ行っても満足しないと言います。世界には紛争が無くならず、本当に餓死する人が存在する中で、それがない日本にいて、これ以上なにを求めますか? セレブとやらになったら満足しますか? 

「世界全体が幸せにならなければ、私ひとりの幸せはあり得ない」、以前にも紹介した宮沢賢治さんのお言葉です。心にある餓鬼に言い聞かせていきたいものです。

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今週の住職

今日は蒸し暑いと思ったら、そのあとに大雨でした。富山県井波町での四十九日法要に出向き、法要後のお斎は旧利賀村の民宿へ連れて行っていただきました。

この民宿は、今日四十九日を迎えたI家のおじいちゃん(彫刻家なんですよ)がご健在だった今から5、6年前の五十回忌のときにもつれてきていただき、とてもおいしい鮎をいただいたことがあり、しみじみと思い出しました。

そんなおじいちゃんの思い出話に花が咲き、つい飲みすぎ、帰りの役僧T氏運転のクルマで爆睡しました(苦笑)。

20060901_145800_t 大好きなスワローズが読売に三連敗した(泣)今夜は日曜日です。恒例の今週の住職予定を紹介します(写真はスワローズのマスコット・つば九郎くんです)。

<9/11・12・14・15>午前中は月忌参り、午後は在寺(予定)

<13>休務日(在寺は未定)

<16>月忌参り後、南砺市で11時より法要(帰寺は15時ごろ)

<17>月忌参り後、金沢市内で11時より法要、砺波市で14時より法要

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人に歴史あり

Dsc00600 夏休みも終わって9日が経ち、学校に展示されていた工作を愛息が持って帰ってきました。動物の切り抜き工作セットを切り抜いて、谷おり、山おりしダンボールの台紙に糊付けしたものですが、半分以上はボクが手伝いました。内緒ですよ(笑)!

9月に入ってとたんに涼しくなったと思ったら、昨日と今日は猛暑の再来で、なまじ涼しさを感じただけに「ひぇ~~」と悲鳴をあげながら法務をこなしています(苦笑)。

今日は、9:00~10:00に二軒の月経を勤め、11:00のご法事のために富山県旧城端のI家に向かいました。いつものことながら、土曜日とあって遊びに行く車列を縫って到着し読経。そしてトンボ返りで寺にもどり、昼食をカキ込んで13:30からM家の祠堂経を役僧T氏とともに勤め、ふたたび月経参りへ、というハードな日程も暑さで疲労も倍増ですぅ。

城端のI家は、おばあちゃんの四十九日法要だったのですが、103歳で亡くなったということは、1903年のお生まれなのですね。歴史の教科書のような年号に、そのおばあちゃん自身の歴史を感じます。ちなみにこの年には、「荒城の月」の滝廉太郎が亡くなっていたり、水泳の自由形から平泳ぎが独立競技と認められたり、キュリー婦人が夫とともにノーベル賞を受賞したり、ハーレー・ダビッドソン社が設立されているのですね。

このおばあちゃんは、そんな103年の移り変わりをどんなふうに見ておられたのか、お聞きしたかったなぁ、としみじみ思いました。

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季節がわり

暑かったり、涼しかったりが日替わりです。さらに昨日、今日はずっと雨です。愛息は傘は持っていったものの、クツはビショビショで帰ってきました。

季節がわり、実は平均的にお葬式が多くなる時期でもあるのです。暑い、寒いもそれが続いているうち、つまり温度差があまりなければ大丈夫なのですが、その高低に開きが大きくなると、弱っている人にはつらくなるようです。

Flower1004 そんなことを思っていると、昨日訃報を聞き、今夜お通夜を勤めてきました。人が亡くなるという場には、慣れてはいても緊張感を伴います。そこには「死」という教えを説く仏となった存在、つまり亡き方を弔う、その教えを聞くということを共有する空間で、ボクは弔問の方々と仏を結ぶ役目をおおせつかっているという緊張感なのかもしれません。

これは、どんな職種でもおなじことですが、ボクらにとっては年に何回もあることでも、施主にとってはただひとりの親族を仏とし、その教えをいただく数少ないご縁であるということですね。そういった儀式がどんどん簡素化していく昨今だからこそ、ボクら僧侶はお経の配達人ではいけない、その自覚が問われていくのだと思います。

若い同業者から、「ボク、なかなかしゃべれないんですわ」と言うことを聞くのですが、ご法事やお通夜の後のヒトコト(法話)が言えないというのです。ボクも、本音を言うとしゃべらずにすむなら、と思います。でも、それではなんのためにボクらは僧侶をやってるのか? ということになります。漢文のお経を読むだけでどれだけの人が理解できるか? 読んでいるボクらでもいまだ難解なのです。だったら、その時点でわかること、思うことを伝える手段としてしゃべることが大事であろうと思いながら、下手を承知でしゃべっています。

聞く方々には、どうか疑問や感想をお寄せください。しゃべるのにいっぱいいっぱいのボクには、それが勉強になりますので。

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ボクの20年

昨日のご法事は、東京からお越しのSさんご家族でした。Sさんは、府中にお住まいの方ですが、京王線沿線と聞いて懐かしくなり、つい話が長くなりました(苦笑)。

というのも、ボクは大学時代に同じ京王線の聖蹟桜ヶ丘からバスで15分くらいの場所でアパート暮らしをしていたのです。Sさんとの会話の中で、仲間たちとよく行っていたボーリング場が取り壊しになったとか、そんなお話を聞き、大学に入学した年からもう20年も経つんだなぁ、とトキに流れをしみじみ感じました。

Dsc00443_1 以前にも紹介した原付バイクですが、こいつは大学3年のときに購入したもので、数少なくなった大学時代の匂いを持つアイテムです。ちなみに、今でも大学時代のジーンズはかろうじて穿けるし、数本健在なんですよ(笑)。当時はスリムばかり穿いていましたが、最近はストレートしか売ってないんで、新たに購入する気がなかなかしません。

音楽好きなボクにとって、それこそ20年かけて集まった1,000枚弱のCDは宝物であり、この20年のボクの歴史だなぁと感じます。執着心と言ってしまえばそれまでながら、ボクも来年4月には40歳なんだなぁ、としみじみ思う秋の始まりでした。

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今週の住職

Munch_scream00 少ぉしづつ、少ぉしづつ涼風とともに秋の雰囲気ですね。昨日、今日、明日とご法事が続きますが、読経そいていても汗をかく量がだいぶ違ってきました。

さて、今週より毎週日曜日の夜にその週の住職の予定を記載することにしましたのでご参考ください。今週のボクの予定ですが、以下のとおりです。

(9/4)午前/月忌参り・11時~寺にて法要一軒 午後/在寺

(9/5~9/7)終日・月忌参り 夕方以降在寺

(9/8)休務日(在寺、不在は未定)

(9/9)11時~城端にて法要 13時半~寺にて祠堂経 以降月忌参り

(9/10)10時~井波町にて法要 15時ごろ帰寺し以降月忌参り

月忌参りとは、月命日にあたるご門徒宅へ読経に行っていて不在という意味です。寺にてと記載以外の法要はご門徒宅にて執行されます。休務日は、曜日でなく日で決まっていて、土日祝の場合はたいがい法要を執行しています。

以前にも書きましたが、住職は常にお寺にいるというイメージをお持ちの方が多いようですが、上記のように結構いないことも多いのでご来寺の場合はぜひご一報くださいますようお願いいたします。

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旅に思う

Dsc00565 旅をするということ、皆さんはどういうイメージを持っていますか? 楽しむ、食べる、感動する、楽をする等、いろいろだと思います。

でも、前にも書きましたが、「旅の恥はかき捨て」という嫌な日本語があります。自分の住んでいる所では決してしないことを、見ず知らずの街ではしてしまう。ゴミ、タバコをポイ捨てする、落書きをする、わがままを言う等、自分でしたこと、あるいはそんな行為を見たことがきっとあるはずです。

そこには、金を出して来てるんだからそれなりのものを求めるという俗物根性丸出しの人間性があります。もし、自分の家の前にたまたま観光客が来て、壁に落書きをし、ゴミを捨てていったら当然怒りますよね?

自分がされて嫌なことはやめましょう。幼稚園や保育園で教わりました。でも、大人になると、自分だけのモノサシを持ち、それを根拠に「たかをくくる」という嫌な技を身につけてしまいます。

「郷に入っては郷に従え」という良い日本語があります。知らない街には、知らないモノサシがあります。そこに行くなら、そのモノサシに従うことです。それができないなら、その気がないなら旅などしないことです。

知らない土地で、知らない文化に触れるご縁、それが旅です。旅をするということは非日常ですが、そこに暮らす方々にはどんな旅人が来ようと日常なのです。

ディズニーランド等の非日常を売るテーマ・パークではそれも許されるかもしれません。でも、街は、観光地と呼ばれる街であっても、そこは人の暮らす街であり、そこにはそこに暮らす人の日常、つまり生活があるということを忘れないでいただきたい。知らない街で、知らない文化を知るご縁をいただくという謙虚さをもって、旅を楽しみましょう。

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