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八月の歌

浜田省吾さんにタイトルにある曲があるんですが、ご存知ですか? 1986年、つまり20年前、ボクの大学時代の曲です。その一節を8月になると思い出すんですよね。

Jacket_m 「八月になるたびに

"広島"ーヒロシマの名のもとに

平和を唱えるこの国

アジアに何を償ってきた

おれ達が組み立てた車がアジアのどこかの街角で

焼かれるニュースを見た」

ちょうど、「太平洋戦争」から「アジア・太平洋戦争」という呼称がなされ始めたころの曲です。誤解しないでほしいのは、広島と長崎の惨禍を軽視するものではなく、戦争そのものの持つ加害と被害を両面から見直していく必要性を感じます。

あの戦争は良くて、この戦争は悪い、ということではなく戦争という所業そのものを「悪」と定義しなければ「平和」はあり得ません。靖国神社の問題も、A級戦犯がいる、いないという以前の問題だと思います。

ヤスクニの神たち、すなわち戦死した方々。ボクが思うに彼らに言葉があるとしたら、「二度と私たちのような神を作らないでください」ということではないでしょうか? 戦争で前線で亡くなっていく、その多くは一般市民から兵士になった方々。平時には、普通の父親であり、兄弟であり、隣人、その一般市民を人を殺す兵士に駆り立てるのが戦争という行為です。

バンザイの声に送られても、行きたくて戦争に行った人が本当にいたでしょうか? 死んで神になる、そうは言われても国よりも家族のことを思えば死にたくないし、死ねない、そう思ったのではないでしょうか?

ヤスクニ問題の本質は、国民=一般市民を戦争に駆り立てる役目を担い、英霊とすることで戦争=悪という姿を覆い隠すことにあり、だからこそ敗戦後、ヤスクニをいち宗教法人と定め、国家による庇護を撤廃したのです。

憲法に保障された信教の自由、コイズミ首相やイシハラ都知事が個人として参拝することは自由です。でも、公職の身である自覚があるなら、これは憲法違反であり、すべきことではないですね。アジアの一員であるという自覚が日本国、日本人には足りないのではないですか?

隣人と協調できない人が、遠い海の向こうの国々との真の協調ができるとも思えません。前述した、お釈迦さんの言葉「兵戈無用」は2,500年を経た現在でも、いまだ実現しないようです。

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