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2006年8月

Summer time blues 3

(前回から続く)

Dsc00594 お土産を選ぶのも旅の楽しみのひとつです。でも、もらってうれしいお土産ってなかなかないんですよね(苦笑)。土地の特産品、その中でも実用的で、言ってみれば当たり障りのないもの? かもしれません。実は郡上八幡は茶どころ、いい香りがただよう茶店へ入ってみました。聞くと、ほうじ茶が名物とのことで母と相方と役僧T氏へ購入しました。他には愛息が気に入った味噌汁のお味噌、鮎の開き(干物)等を買いましたが、夏の場合クーラーバッグを持参して行ったので重宝しましたよ♪

お昼には、有名なおそば屋さんへ行ってみましたが、行列状態だったため他のお店へ行き、おそばと夕べ気に入っていた郡上地鶏のから揚げを食べご満悦です。なんとなく名残惜しくもありましたが、郡上八幡の街を後にし、郡上の旧町役場のお姉さんのおススメで「ひるがの高原」へ。夏のスキー場一面にゆりを植えた「ゆり園」がきれいとのこと、でしたが、すでに盛りをすぎゆりはポツポツでした。でも、閑散とした高原の涼風の中をリフトに乗って愛息は上機嫌だったようでホッとしました。

「よし! 金沢へ帰る前にもう一回温泉に入っていくか?」と言うと「行く行く!」と言うので、帰り道にある富山県五箇山の「くろば温泉」へ・・・・・、しかし休館日でがっかり。しかし、ボクは「大丈夫!もう一軒あるぞ!」と言って城端「桜が池クアガーデン」へ。二日間のロングドライブと歩き疲れた身体を伸ばしつつ、「楽しかったね」と顔を見合わせ、金沢へ帰りました。

家に着いたボクらは、母や相方に二日間のビデオを見せながら土産話をし、そのうち愛息は寝息をたてていました。

楽しかった夏休みも今日で終わり、明日からは学校です。夏の思い出いっぱいできたようで、よかったなぁと思います。ボクもいっしょに楽しみましたね(苦笑)。

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Summer time blues 2

<前回からのつづきです>

郡上八幡に到着し、投宿したのは市内メインストリートにある「中島屋」さん。Dsc00562 小さいながらも落ち着いた雰囲気の老舗旅館です。駐車場が二台分しかなくすでに満車で、どうしましょう? と聞いたら「お向かいのJAへどうぞ」と昔ながらの街の信頼関係が生きています。

さて、実は郡上踊りもない平日なので閑散としているだろうと思っていたら、八幡城近くにある城下町プラザで郡上踊りが開催されているとのこと! これがうれしい誤算でした。でも、ネットで事前にいろいろ検索していてもそんな情報はなかったのになぁ~(苦笑)。

というわけで、さっそく城下町プラザへとおでかけ。すると、すでに浴衣を着た人たちが櫓(やぐら)を囲んで踊っていました。Dsc00569

最初は照れくさかったボクらですが、前で踊っている人の真似をしながら「それそれ♪」とばかりに踊ってみました(笑)。旧盆のころの本当の郡上踊りは一晩中行われるとあって、案外おぼえやすい振り付けで、しばらくするとそれなりに(?)踊れました。

だいぶ涼しくなってきたとはいえ、30分ほども踊れば汗がにじんできました。愛息と「おなかすいたね~」と顔を見合わせ、城下町プラザをあとにし、夕食へ。Dsc00573 ほど近い「大八」さんへと足を運んでみました。古い民家づくりの郷土料理店で、鮎やアマゴといった川魚料理もありますが、そこはまだ7歳の愛息と一緒なので、飛騨牛や郡上地鶏を中心にオーダーしました。

生ビールとウーロン茶で、「今日はお疲れ~!」と乾杯。まず出てきたのは飛騨牛のユッケで、愛息は初めてでしたが、一口食べて「パパ、おいしいよ、これ!」と舌鼓。そして、飛騨牛もおいしかったのですが、郡上地鶏のおいしかったこと! さらに、愛息が頼んだご飯とお味噌汁、これが本当においしかったです。店の方いわく、「お米もおいしいけど、やっぱり水がいいからなんですよ」と言われ納得。

おなかいっぱいになって旅館へ帰り、浴衣を着て敷かれたお布団を並べてゆっくり。日頃ベッドで寝ている愛息は、お布団を並べて寝るのがうれしいらしくはしゃいでいましたが、そのうち静かな寝息をたてていました。

翌朝は、温泉ではないですが旅館で朝風呂、そして朝食をおいしくいただき「お世話になりました」と出発。朝一番で目指したのは八幡城です。

Dsc00586 お城自体は、昭和8年になって再建されたものですが、その歴史自体は古く、鎌倉時代にまでさかのぼります。しかし、室町~戦国~安土桃山~江戸と時代に翻弄され、その城主も何度も代わっているのですね。山城とあって、天守閣からの眺めが絶品でした。市内を一望でき、市の真ん中を流れる吉田川(長良川の支流)にキラキラと太陽が反射してきれいでした。

八幡城をあとにし、市内散策へ。あちこちに水路があり、昔ながらの街並み、それが観光だけに保存されているのではなくちゃんと人の生活がある、こういう街が好きです。子どもには退屈かもしれないな、とも思いながらも案外いっしょに歩いてても文句言わず、彼なりに楽しんで歩いている愛息。

Dsc00596 日本名水百選でもある「宗祇水」をはじめ、街中のいたるところにある水のみ場では「冷たぁい♪」と舌鼓。アイスクリームにも舌鼓(笑)。ちなみにここ岐阜県には、おなじ真宗大谷派の寺院が多く、その多くが大きいのにもびっくり! 

お土産もいろいろ買いました。いろんな名産品があるのですが・・・

Summer time blues 3 につづく~(また?/笑)!

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Summer time blues 1

というワケで、愛息とのふたり旅に行ってきました。

ボクは、あまり作られた観光地が好きでなく、古い街並が残り、かつそこに人の生活のある街がこ好みなのです。昨年は、春に飛騨高山、夏に信州松本へ行きますますハマッてます(苦笑)。

そして今年、前述のように母と相方が猛暑でバテバテなため、一度は中止も考えたのですが、愛息が「行こうよパパ!」と言うので、「よっしゃ! 男同士のふたり旅やな」と昨朝出発。

今回のルート(1)、金沢~(北陸道経由)~富山IC~飛騨古川で昼食&プチ観光です。

Dsc00553 「味処 古川」さんにてそれぞれラーメンと、朴葉焼き飛騨牛ステーキ一人前を半分こしてペロリ♪ さらに、街角で売っている飛騨牛コロッケ(絶品ですよ)を頬張りながら街中を散策しました。高山を小柄にしたような、やはりいい街でした。町営(?)駐車場のおじさんは愛息を見て、「お? まだ夏休みか? このへんはもう学校始まっとるぞぉ」と気さくに笑っていました(笑)。

ルート(2)、古川~高山~飛騨清美IC~(東海北陸道経由)~ぎふ大和IC~「やまと温泉やすらぎ館」。実はボクはもちろん、愛息も7歳にして温泉好きです♪

Dsc00561 今回は本格的な温泉地へは寄れなかったのですが、ここの温泉はよかったです! 露天風呂につかり、山々を眺めながら愛息と「おぉ! 肌ツルツルやなぁ!」とお互いにホッペやら腕やらを触りながら大満足でした。

つるつる&すべすべになったボクらが向かったのは、今回の大目的地たる郡上八幡です。郡上踊りで有名な岐阜の小都市ですが、以前より一度行ってみたかった街です。ただし、混雑嫌いなボクは郡上踊りのないこの日に来訪したのですが、うれしい誤算でした。その誤算とは~?

Summer time blues 2 に続く! 乞うご期待♪

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というワケで

Dsc00445 明日と明後日、夏バテ解消一泊旅行に行ってきます! といっても、ボクと愛息のふたり旅なんですけどね(笑)。

昨年は、信州・松本へ母、相方、愛息とともに行ってきたので今年も、と考えていたところ、母&相方は夏バテで体調を崩しており、一度は中止も考えたのですが、土日祝はご法事でなかなか泊りがけでの旅行ができない我が家、愛息とふたりで「行くか!」と強行することとなりました。

どこへ? それは帰ってからの報告をお楽しみに♪ ボクの愛車(左上画像)を見かけた方はご一報ください(笑)。

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ダブルヘッダー

Dsc00409 今日は、ご法事のダブルヘッダーで疲れました。暑さは、ここ2,3日だいぶやわらいできましたが、それでもフル装備の中は汗みずくです。

さらにここしばらくなかったのですが、お斎(おとき=ご法事等の後のご膳)もダブルヘッダーだったのです。どちらも富山県南砺市で、先が11時から、後が15時からでした。

でも、いつも思うのは金沢のご法事がどんどん簡略化していく中で、南砺地方の方々は実に丁寧なのです。いわゆる散居村といわれる広い敷地に広い住宅であることもあって、各家庭には我々僧侶の控えの間が必ずあり、お家族の方々が代わる代わるご挨拶に訪れます。

そして、先のお宅のお斎はお店へ行き大変おいしくいただきました。後のお宅は、これまた最近減少しつつあるご自宅でのお斎でした。このお宅はお葬式もご自宅でしたが、セレモニーホールのものより印象に残るものです。お斎も、仕出し屋からのものですが、場所がご自宅なだけにご家族総出でもてなしていただいているという温かさを感じるものです。

ただ、日に二回目ともなるとそんなに食べられるものではなく、疲労もあって法要後一時間ほどでご無礼させていただいた次第です。両家ともに大変ありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。

朝方には、虫の声も聞こえだし、かすかながら秋の気配です。夏の疲れがでませんよう、皆さまご自愛ください。

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続・八月の歌

Banzai_cliff きれいな海です。これはサイパン島にあるバンザイクリフと呼ばれる岬で、アジア・太平洋戦争末期の1944年夏に米軍に追い詰められた日本人およそ一万人が「バンザイ」と叫びながら身を投げたことからこの名がついたといわれます。

当時、「戦陣訓」というものがあり「生きて虜囚(りょしゅう=捕虜)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍(ざいか=罪やわざわい、ふしあわせの汚名(おめい=不名誉な評判。悪名)を残すこと勿(なか)」という教えが軍人のみならず、一般庶民にまで浸透していたことから起こった悲劇です。

来月には、コイズミに代わる首相が誕生するようですが、その本命と言われるアベは「憲法改正」を高らかと公約に掲げました。いよいよそんな時代になってきたなぁ、と思うとともに、そんな大事な公約の支持不支持を国民が表現できないことに憤りを感じます。

国が戦争をしません! と定めた憲法が、どれほど一般市民にとってありがたいものか、なぜその憲法を変える必要があるのか? 

毎日お参りに回って、多くのお年寄りとお話します。たいがいの方が戦中経験者であり、中でもおばあちゃんたちのほとんどが「戦争だけは二度と嫌や」とおっしゃいます。むろん兵役経験のあるおじいちゃんたちの中には、多くを語りたがらない方もいらっしゃいます。

むろん戦中経験のないボクですが、お年寄り方の話は真実味があり戦争の本当の姿の一部がそこにはあるように感じます。幼き日、周囲の雰囲気で「バンザイ」と叫び、父親や兄を英雄のように戦争に送り出した夜、人知れず泣いていた母親の姿がわすれられないという方。生まれたばかりの子が食糧不足で餓死したという方。いろいろです。

そこにどんな「正義」があったとしても、国民は国家の奴隷ではないはずです。阿弥陀さんは、皆が等しく救われる願いを具現化したお姿だといわれます。人のみならず、生きとし生けるものはその生をまっとうし、精一杯生ききる権利を有しています。その生をまっとうしようとするのが生の本能であり願いです。その願いを妨げること、すなわち本願への冒涜です。

戦争とは、相手があってのことであり、そこで失われる命の存在は皆おなじであり、平等です。人知れず泣いた母、どれだけの母たちが夫や子を失い、どれだけの国で泣いたのか? 国家体制を守ることよりも、そんな血の涙を流させない暮らしを守ることが国家と政治家の役目ではないのでしょうか?

愛国心、そんな言葉の元に、自分自身はもとより、家族や愛すべき人々の命の尊厳を脅かすような生活を求めますか? 国は国民あってのもので、逆転してはいけません。

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家族のいる喜び

Dsc00257 夕べ、里帰りしていた相方と愛息が京都から帰ってきました。特急サンダーバードの到着時間に駅まで迎えに行ったのですが、改札を出てきた愛息がボクの姿を認めた愛息は、「パパぁ~!」と抱きついてきました。

現在小一ですが、こればっかりは幼稚園時代と変わらず、ボクも思わずぎゅっと抱きしめてあげます(照笑)。いつまでこうだろうか? と思いながらも親としての喜びを感じる瞬間です。親ばか、そう言われても結構なんですよね(笑)。

一週間ほどの独身生活でした。それはそれで楽しいものです。前述のように好きなホラー映画を観たり、時間を気にせずネットサーフィンに没頭したり。でも、時間がたつにつれて、いるべき人がいない空虚感、物足りなさを感じるものですよね。

時には煩わしくも感じるものですが、「パパぁ~」とボクを求めてくれる愛息の存在は何ものにも代えがたいなぁ、と盆と正月にはつくづくありがたく感じさせられる貴重な時間だったりするのです。今朝、相方の作ったお味噌汁を飲んで、またしみじみそんなことを思う次第です(照笑)。

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真夏の報恩講ツアー

Dsc00261 夏バテです(汗)。

前述のように、この時期に富山県のご門徒宅へ報恩講に行きます。昨日は富山県城端(現南砺市)の山間部へ報恩講参りに行ってきました。役僧T氏と11軒のお宅にお邪魔してきましたが、とにかく暑かったです! 例年ですと、お盆も過ぎて少し涼やかな山の風が吹き、稲穂を揺らす風光明媚なところなのですが、今年は街中と変わらずに猛暑でした。

Dsc00262 でも、このあたりのお米は非常においしく、毎年順番に各家でお昼をいただき、思わず「おかわり!」なのですが、今年はあまりの暑さにバテ気味で一杯だけにとどまりました(苦笑)。

各家の方々も、「朝方しか農作業ができんがやちゃ~」と汗を拭き拭き苦笑されていました。ボクらは、いくら夏物といっても襦袢、白衣、裳付、五条袈裟に足袋を着用し、「正信偈」を六首引を読むと、頭から、背中から、足から汗がしたたり落ちます。

合併して、城端も南砺市となり、福光も井波も福野も五箇山もおんなじ市なのですが、「ピンとこんわいね。かえって不便な面も多いがやちゃ」、そんな会話を交わしながら無事に11軒を回り、帰ってきました。

Dsc00260 16日に行ってきました旧福野でのお話をひとつ。現在大規模な遺跡が発掘されていて、古代~中世にこのあたりで荘園を中心とした文化があったと推定なれるとか。この地区のH家のご主人とそんな会話を交わし、H家のすぐ近くの発掘現場を写真(左)に撮って帰ってきました。この遺跡、詳しくはこちらをご覧ください。

これで、夏の報恩講ツアーも終わり、明日には相方と愛息もお里から帰ってきますし、夏バテ解消といきたいものですが、少しでも日差しが和らいでくれるとよいのですが。皆さんもくれぐれもご自愛くださいますよう念じあげます。

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あるご家庭にて

Dento_higasi ひさびさに雨がふり、庭の水撒きをせずにすみました。しかし、暑いです!

昨日は、富山県砺波~南砺のご門徒さん宅10軒を回って報恩講をお勤めしてきましたが、襦袢がしぼれるほどの汗をかきバテバテで帰ってきました(苦笑)。今ごろ? と思われるかもしれませんが、秋の報恩講シーズンには金沢で手一杯なため、この次期に参勤させていただいております。

さて、今日はいつもの月忌参りをしておりましたところ、とあるお宅にてなんとも言いようのない光景と出合いました。

いつもは、おじいちゃんとおばあちゃんがお参りされるのですが、今日は夏休みでお孫さんもいらっしゃいました。しかし、小学生(高学年?)の彼女は「おはようございます」と言って部屋に入ったボクに一瞥もくれずにテレビを見続け、読経が始まるとイヤホンをしてテレビ鑑賞を続けていたのです。

そして、おじいちゃんも、おばあちゃんもそのお孫さんに何も言わずお参りされていたのです。読経が終わっても、ずっとその姿勢を崩さない彼女、どこか苦々しい表情のおじいちゃん、お茶を持ってきてくださったおばあちゃん、お茶をいただきながら雑談を交わすボクが同居する、なんとも複雑な空間でした。

ボクがそのことについて一言、という雰囲気でもなく無力さを感じつつそのお宅をあとにしました。長年お邪魔していてるお宅でありながら、そのご家庭に一歩踏み込むことをためらうボクがいました。

実は、「若いもんには何も言えん」と苦笑されるお年寄りは、非常に多いのです。特にお孫さんの教育には、「時代が違いますわ」と何ひとつ叱らず、しつけられない環境にある場合が多いのです。

どうして、こうまでお年寄りの立場が弱くなったのでしょうか? ボクのおじいちゃんは、かわいがってくれた半面、非常にしつけには厳しい方でもありましたし、それに対して両親が意義を唱えたことはないように思います。

ボクがこのようなお宅に、思いきって「おかしい」と言うことで何が変わるわけではないかもしれません。でも、言わなければならないことではないでしょうか? 皆さんはどう思われますか? ご意見お聞かせください。

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続・兵戈無用

Bin041204181546009 今日は敗戦記念日です。首相が今朝ヤスクニに参拝されたらしいですね。コイズミさん個人が、個人の信仰に基づいて参拝されるのは自由です。この国の憲法では、信教の自由が保障されてますからね。

しかし、「内閣総理大臣」として参拝されることは政教分離に違反すると思います。前にも書きましたが、ヤスクニに参拝するということはどういうことか? A級戦犯が合祀されてるからいけないのでしょうか?

それ以前にヤスクニとはなんですか? 国のために戦って亡くなった方への思い、それはあって当然です。でも、戦争を決定した国の指導者にとって、国民を戦争に駆り立て、戦死したら神にしてあげますからという免罪符だったのが敗戦までのヤスクニの役割です。

ある調査では、日本が戦争したら国のために死ねますか? という問いに「はい」と答えたのは15%程度でしかないらしいですね。ボクもその問いには、きっぱり「いいえ」と答えます。なぜなら、人に殺されたくない以上に、人を殺したくないからです。

平素は人を殺すと罪になります。戦時は人を殺せば殺しただけ褒められます。そのひとつをとっても「戦争=異常」と言ってもよいのではないですか? 神になるといわれて死ねますか?

お国のため、そういわれてもまず考えるのは家族のことじゃないですか? それが一般市民じゃないですか? 国あっての国民なのか? 否、国民あっての国です。戦争を決定する国家の指導者たちが、銃弾の飛び交う前線に行くことは決してないところで戦争を決定します。だから、その前線で双方どれだけの血が流れ、一人ひとりの兵士たちの家族が血の涙を流していることまで考えているとは思えません。

東京裁判は勝者の一方的な裁きです。日本にA級戦犯が存在するなら、連合軍諸国にもA級戦犯は存在するはずです。そこには、敵国人民を殺し勝利したものが英雄とされる異常、すなわち戦時の価値観が存在します。ただ東京裁判が示した、戦争には、戦争犯罪という概念があるということ、そしてその戦争の指導者には罪があるという概念を示したということ、一方的であってもそこに大きな価値があると思います。

人類は、戦争すなわち悪という発想をいつになったらできるのでしょうか? 2,500年前に、お釈迦さんがおっしゃられたという「兵戈無用(ひょうがむよう=軍隊も武器も無用)」という思想はいつになったら人類は規範とできるのでしょうか?

アジア諸国が反発するから、A級戦犯が合祀されているからヤスクニを参拝したらいけないというレベルの話ではないのです。あなたは、そしてあなたの子どもや孫をヤスクニの神になるからといって、その命を国に差し出せますか? そんな時代の復古を望みますか? ということではないでしょうか?

前述を繰り返しますが、ヤスクニの神々に声があるとしたら、「二度と我々のような神を作らないでください」ということではないですか? それに「はい」と答えることが、今を生きる我々が戦争で亡くなった方々への何よりの答えなのではないでしょうか?

画像は、ピカソの「ゲルニカ」という絵です。ナチスドイツの支援を受けたスペイン内乱での空爆で地獄と化した街を描いた絵です。一般市民の望みは、平和な家庭というささやかなものであり、本来、国はそれを実現し、保持することがその役目なはずです。

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やれやれ

全国的にお盆休みによる帰省や、行楽ラッシュだそうですね。たしかに道は混んでますが、よく「お盆で忙しいでしょ?」と言われます。

「いやぁ、ぜんぜんですわ(笑)」と答えますが、前述のように金沢のお盆は7月なので、8月のお盆は特に行事もないのです。さらに、以外かもしれませんが8月はお葬式が年で一番と言っていいほど少ない、というよりほとんどないのです。お葬式が少ない、ということはご法事も少ないのです、はい。

もちろん、ボクのような金沢中心に法務をしている方以外は7月は金沢、8月は郊外と忙しくされています。というわけで、平常業務というか月忌参りにいつもどおり回っていますが、県外ナンバーのクルマや、行楽目当てのクルマの群れを縫って走ってますわ。

お寺という特殊な家にいるせいか、ゴールデンウィークや8月のお盆、普通の3連休でも憂鬱になります。路上が平常でなく、思わぬところが渋滞してたり、遠方より急なご参詣があったりして右往左往するんですよね(苦笑)。

まぁ、路上の混雑はともかく、前にも書きましたが、どうも寺の住職は、いつでも寺にいるというイメージがあるらしく、たいがいの方は連絡なしで尋ねてこられるんです。せっかくお盆休みを利用して遠方より見えるご門徒さん、こちらもお会いしたいのにお会いできない、そんなケースが多いのです。どうか、当日の朝でも結構ですので、ご一報ください、お願いします。

それと、変な話で恐縮ですが、不思議なのはお手洗いに入っているときに限って電話やご訪問のチャイムが鳴るんですよね(苦笑)。これって、自営業の方にお話するとおおいにご賛同いただくんですけどね(笑)。

明日は、我が家のお墓参りに行ってきます。もともと当寺が発足した金沢市郊外の大桑町にあるお墓へ行くんですが、毎年そのあと相方(妻)と愛息は、相方の郷里である京都へお里帰りするんです。で、一週間ほど寂しさや気楽さと同居します。

E1fd13d3 こう見えても(?)、一人暮らしが長いぶん、家事一般こなします。夕食は両親ととりますが、朝昼は自炊し、掃除、洗濯こなします。というか、結構好きだったりします(笑)。そして、相方や愛息がいないからこそ見られる、ひそかな楽しみホラー映画を見まくります。一週間で5,6本ほどレンタルし、見まくります(笑)。

みなさんのひそかな楽しみ、よかったら教えてくださいね。

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不自然な自然に思う

Dsc00526 帰省ラッシュが始まったようです。ボクは、お寺に帰ってきて7年、帰省というものにご縁がなくなりました。テレビで渋滞の画像を人ゴトのように見ています。

思えば大学時代から独身時代はずっと、京都から、あるいは東京から帰省していました。相方との遠距離恋愛中は隔週のように東京と京都を往復してたりもしてましたねぇ(苦笑)。

しかし、暑いです! ここ数年の夏は、猛暑か冷夏と極端であり、夕立ちがまったくない夏です。夏に限らず、なんだか、毎年毎年「今年はおかしな年やね~」と言っているような気がしませんか? 毎年おかしな年、普通の年ってどんなんやったんかな? 毎年おかしいなら、おかしいのが普通化しているのかな? と考えさせられます。

先月水害にあった九州の友人が、「今年は今からこれじゃ、台風がきたらどないなるんやろ?」と苦笑しながら話していました。でも、自然の与えるご縁、こればっかりはただただ受け入れるしかないのが人なのですね。どれだけ科学が発達しても、自然の猛威にはかなわない、それがわかっていても抵抗せずにはいられない、その抵抗がさらなる自然の猛威を招いているにも関わらず、といったらいいすぎでしょうか?

冷房なしではいられない、窓をあけてみるとお隣のエアコン室外機が吐き出す温風が流れ込んでくる、たまらず窓を閉めてウチもエアコンをつけるの悪循環。エアコン、クルマ、工場、先進国といわれる国々が吐き出すこの温風によって地球が温暖化し、不自然な自然が巻き起こす被害は先進国のみならず他の国々にも及んでいます。

「世界全体が幸せにならなければ、私の幸せはありえない」と宮沢賢治さんは言われたといいます。みなが自分ひとりの幸せや安楽を求める限り、その自分の幸せは遠のいていくばかりなのかもしれません。

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親鸞さんの思い

Dsc00351 掲示板に新たなご縁をいただきました。さまざまな疑問をお抱えのようで、ボクも思いつく限り掲示板上にてお答えしました。

その中で、「「親鸞聖人」の考えを絶対的なものとして、お釈迦様の考えより上に持ってくるのはどうしてでしょうか? 私には「仏教」でなく『親鸞教』のように感じて、違和感が感じられます」という疑問に少し驚きました。

そのように感じておられる方の存在はわかるような気がしますが、ボクたちからすれば、なぜそこにそんなにこだわるのか? というのが正直な気持ちなんです。お釈迦さんと親鸞さん、どっちが上でもどっちが下でもないです。ただ、お釈迦さんがいなければ親鸞さんは親鸞さんではなかっただろうということは確かでしょう。

「何宗であっても、元はお釈迦さん、みんなおんなじやろ?」と言わはる方も多いですね。だからこそそれを前提に親鸞さんの教え、真宗にご縁を受けた事実がある以上、親鸞さんがお釈迦さんの説かれたとされる浄土三部経を真宗の根本経典とされた意味を考えていくことが自然であり、お釈迦さんを否定したり、親鸞さんをお釈迦さんより上位に考えているわけではありません。

まず、目前にあるご縁を事実として受け止め、引き受けていくこと、そこからしか一歩も前に出ることはできないこの身なのです。親鸞さん自身、20年の長きにわたって比叡山にて膨大なお釈迦さんの教え「仏説」と向き合った結果、浄土三部経を見出され、自身が山を降り広く一般民衆の中に溶け込んでいかれました。

それから750年を経た現在、真宗にご縁を持つご門徒が数多く健在な事実を、この身がそのひとりであるという事実を、まず引き受けていくこと、そこからしか親鸞さんの思いは見えてこないと思います。そこを引き受けずに知識や表面から感じる疑問は、食べず嫌いのようなものなのかもしれませんね。それこそあなたのご先祖が、あなたまで受け継いでこられた歴史と事実があるのですから。

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他力 他力本願 親鸞

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ご先祖とは?

Dsc00466_1 全国的にお盆間近ですね。金沢では先月の新盆で終わってるので、ボクの八月はヒマです(笑)。みなさんはどんなお盆をお過ごしになられるのでしょうか?

郷里に帰省し、お墓参りをされる方も多いかと思います。では、お墓参りはなぜするのでしょう? 俗にお盆には、ご先祖がお浄土からかえってこられるのをお迎えすると思われているようですね。

本当にその霊魂とやらが帰ってくる、来ないはともかく、ご先祖とはどういう存在なのでしょうか? 想像力をふくらまさず、具体的に考えてみましょう。

まず、身近なご先祖、両親を思い浮かべてみると、そのひとりひとりにふたりづつの親、つまり両親には4人のご先祖がいることになり、その4人には8人のご先祖、そのまた上には16人のご先祖が・・・、と考えると膨大な数のご先祖が存在します。

むろんお墓の中には、直系のご先祖しか入っていないかもしれません。しかしながら、そんな膨大な数のご先祖、そのひとりが欠けても、この身は、この世に存在しない、事実としてそれが確認できるわけですね。そんな命のつながりの中で、この世に生を受けること自体が奇跡のようなことであるわけです。

お釈迦さんの有名な逸話に、「天上天下唯我独尊」という言葉が出てきます。これは、そんな奇跡のような命のつながりからこの世に生を受けたこの身は、天の上にも下にもオリジナルとして唯一の存在として尊いのだ、というご先祖とこの世に生を受けたことへの感謝の言葉なんだと思います。

お墓参りをし、ご先祖に思いを馳せる、そこからご自分の中に生きてくれている命が、けっして粗末にしてよいものではない、大事な尊いものだということを知り、そのことをご家族一緒に確認していくご縁としていただきたいものです。

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続・今どきの・・・?

今どきの、というと「若いもん」と続くイメージが強いですね。そして、その今どきの若いもんのひとり、ある意味代表かもしれないのがプロボクサーのカメダ選手でしょうか。

あまりボクシングには詳しくないボクでも、あれだけテレビに出ていれば見るともなしに見てしまいます。そして、先日の世界王座をかけたタイトルマッチでは、なんとも言いようのない社会現象が起きていますね。

ボク的には、対戦したランダエタ選手のコメントがすべてを言い表しているように思います。

2006080300000003spnavi_otspothum000 「彼はこれからボクサーとして、

人間として学ばなければならないことが多い。

敬意を払うことを覚えろ」

これは、カメダ選手のみならず今どきの若いもん(ボクも含めた?)に共通することなのかもしれません。敬語が使えない(使う気がない)、敬意を払うことができない、そんな若いもん、多いですね。

でも、これは果たして若いもんだけなんでしょうか? たとえばクルマを運転していて交通ルールやマナー、他のクルマに敬意を払わない中高年って、以外なほど多いんですよ。

窓からタバコのポイ捨て、合図(ウィンカー)なしの車線変更に割り込み、道を譲ってもらっても会釈のできない(しない)今どきのおじさま&おばさま方は、若いもんに負けず劣らず多いですよね。

いつの時代も、今どきの若いもんは世間や常識に反発します。しかし、ヒト昔前までは、お手本となる、尊敬できる年長者と出会うことで、道をはずさずに成長していっていたように思います。

今どきはどうでしょう?

スーパー等の駐車場の入り口付近には、必ず「車イス専用」の駐車スペースがありますが、そこに駐車するクルマからは特に車イス不要にしか見えない中高年のご夫婦が降りてくる光景を多く見かけます。

路上に斜線が引いてある所、つまり駐停車禁止スペースですが、そこで信号待ちをしているクルマの中には、携帯電話で話をしているおじさま、よく見かけます。

国際線の飛行機の中で、「お手洗いの中での喫煙はご遠慮ください」と日本語のみでアナウンスされる理由は、日本のおじさま方しかそういう行為をしないためだそうです。等々・・・・・。

守るべきことは守る。当たり前のことができない、しない、それこそ敬意を払うことをしない。若いもんはもちろんなんです、でもおじさま&おばさま方にはカッコよくお手本になっていただきたいです。ボクもそういうおっさんを目指したいと思いますよ。

老若男女、すべてを受け入れてくれている大地の上で、人だけが傍若無人では、それこそカッコつかないじゃないですか?

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八月の歌

浜田省吾さんにタイトルにある曲があるんですが、ご存知ですか? 1986年、つまり20年前、ボクの大学時代の曲です。その一節を8月になると思い出すんですよね。

Jacket_m 「八月になるたびに

"広島"ーヒロシマの名のもとに

平和を唱えるこの国

アジアに何を償ってきた

おれ達が組み立てた車がアジアのどこかの街角で

焼かれるニュースを見た」

ちょうど、「太平洋戦争」から「アジア・太平洋戦争」という呼称がなされ始めたころの曲です。誤解しないでほしいのは、広島と長崎の惨禍を軽視するものではなく、戦争そのものの持つ加害と被害を両面から見直していく必要性を感じます。

あの戦争は良くて、この戦争は悪い、ということではなく戦争という所業そのものを「悪」と定義しなければ「平和」はあり得ません。靖国神社の問題も、A級戦犯がいる、いないという以前の問題だと思います。

ヤスクニの神たち、すなわち戦死した方々。ボクが思うに彼らに言葉があるとしたら、「二度と私たちのような神を作らないでください」ということではないでしょうか? 戦争で前線で亡くなっていく、その多くは一般市民から兵士になった方々。平時には、普通の父親であり、兄弟であり、隣人、その一般市民を人を殺す兵士に駆り立てるのが戦争という行為です。

バンザイの声に送られても、行きたくて戦争に行った人が本当にいたでしょうか? 死んで神になる、そうは言われても国よりも家族のことを思えば死にたくないし、死ねない、そう思ったのではないでしょうか?

ヤスクニ問題の本質は、国民=一般市民を戦争に駆り立てる役目を担い、英霊とすることで戦争=悪という姿を覆い隠すことにあり、だからこそ敗戦後、ヤスクニをいち宗教法人と定め、国家による庇護を撤廃したのです。

憲法に保障された信教の自由、コイズミ首相やイシハラ都知事が個人として参拝することは自由です。でも、公職の身である自覚があるなら、これは憲法違反であり、すべきことではないですね。アジアの一員であるという自覚が日本国、日本人には足りないのではないですか?

隣人と協調できない人が、遠い海の向こうの国々との真の協調ができるとも思えません。前述した、お釈迦さんの言葉「兵戈無用」は2,500年を経た現在でも、いまだ実現しないようです。

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今どきの・・・?

ようやく梅雨明けしたら猛暑です! 昨日はさっそく待ちに待った海水浴へいってきました。やっぱり海はいいもんです、夏の娯楽の王道と思っているのはボクだけでしょうか(笑)?

Dsc00533 毎年行っている能登千里浜海岸で一日遊んで大満足! 合流してくれた近在のNちゃん家族にも感謝! しかし、日焼けでピリピリする肌と疲労で今朝は寝坊しました(苦笑)。

でも、行楽地へ行くと感じることが多々あります。「旅の恥はかき捨て」というありがたくない日本語がありますが、ゴミの放置やあらゆるマナーの逸脱を目にします。

浜茶屋で走り回る子どもの姿。これは日常のレストランや街中でも頻繁に見かけることですが、自宅と公共の場所でのしつけの問題ですよね。親ごさんは、「ここはおウチじゃないの。ほかの人に迷惑をかけないようにしましょうね」というヒトコトがなぜいえないのでしょう?

というと、「今どきの若い親たちは」という声が聞こえそうですが、その今どきの親たち以上にそれを言えないのがおじいちゃんとおばあちゃんなんです。

お参りに行ったお宅でもよく聞く話ですが、子どもの教育とかに口出せない、というお年寄りの多いこと。おばあちゃんがお嫁さんに気を使いすぎて胃に穴があいた、なんて話は珍しくないくらいだったりします。

そんな昨今の家庭事情が何を生んでいるのかは、街中を見れば見えてきます。路上に座り込む若者に眉をひそめる人は多いですが、ならお宅はどうですか? という問いがそこにはあります。勉強ができればいい、そのほかはうるさく言わない、そんなご家庭多くないですか?

ボクが言うのもなんですが、教育で一番むずかしいのは叱ることです。ボクもあとで「あちゃ~」と思うことばかりですが、しかることよりも「なんで、それをしたらいけないのか」をわかってもらうことが大事なのではないですか。それ以前に、あいさつをすること、クツをそろえて脱ぐ、敬語を使う等、教えるよりも親や祖父、祖母がそれを日常で、子どものお手本として示しているかどうか、そんな身近のところの問題のように思います。

叱らないから、叱られることに慣れてない子どもたちが、当たり前のことで叱られて逆切れする、身の回りの大人がいいかげんだから子どもも路上に座る。大人の責任は大きいんですよね、きっと。

入り口に近いからって、車椅子マークのついた駐車スペースにクルマを止めてませんか? そんなところから、いろんなことを日々思います。ボクがすべて、上記のことをこなせてるワケではないです。でも、だからこそいっしょに考えませんか? いいかげんになっているさまざまなことを。

今どきの・・・、はボクたち一人ひとりの「まぁ、いいだろ」的ないいかげんさから作られているように思います。

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